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北海道の名付け親 松浦武四郎と綱敷天満宮

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2018年6月16日(土)、須磨歴史倶楽部の例会で松浦武四郎に関する発表が
ありました。これに刺激され今回のブログ作成に繋がりました。

まず、松浦武四郎(1818-1888)の経歴を簡単に記載しておきます。
松浦武四郎は6回の蝦夷地調査を実施。蝦夷地詳細な地図を作成さらに北海道の
名付け親としても知られる。

文化15年(1818) 2月6日 伊勢国志部須川村(現在の松阪市小野江町)に生まれる
          松浦時春(桂助)の四男
文政7年(1824)  近くの寺で読み書きを習い、「名所図会」を愛読
天保元年(1830)  津藩平松楽斎の私塾に学ぶ(13歳~16歳)
天保4年(1833)  2月手紙を残して突然家出→江戸で見つかり連れ戻される

天保5年(1834)  全国を巡る旅に出る。(17歳~20歳)
           松浦武四郎の旅の資金は篆刻で稼いでいたと言われています
           篆刻の技は16歳の時江戸での居候先、漢学者の山口遇所より習得
天保9年(1838)  長崎で大病、「禅林寺」で出家し僧侶「文桂」となる
天保10年(1839) 平戸の「千光寺」で住職を務める(22歳~24歳)

天保14年(1843) 長崎でロシア南下の危機を知り、蝦夷地を目指す。
           郷里へ戻り参宮と父母の墓に参る、「西海雑誌」を著す

弘化2年(1845)  第1回蝦夷地探査。商人和賀屋孫兵衛の手代に身を変え、
           函館→森→有珠→室蘭→襟裳→釧路→厚岸→知床→根室→函館を巡る
弘化3年(1846)  第2回蝦夷地探査。松前藩医西川春庵の下僕「雲平」として調査
           江差→宗谷→樺太→宗谷→紋別→知床→宗谷→石狩→千歳→江差
嘉永2年(1849)  第3回 蝦夷地探査。函館から船で国後島、択捉島へ渡る
           ここまでは松浦武四郎の私的な探査

嘉永3年(1850)  これまでの3回の調査を「初航蝦夷日誌」全12冊、「再航蝦夷日誌」
          全14冊、「三航蝦夷日誌」全8冊という題でまとめる。
            以降は幕府の公認、援助のもとに探査が進められています。

安政3年(1856)  第4回蝦夷地探査。函館→宗谷→樺太→宗谷→函館
安政4年(1857)  第5回蝦夷地探査。函館→石狩→上川→天塩→函館
安政5年(1858)  第6回蝦夷地探査。北海道全ての海岸→十勝→阿寒→日高

安政6年(1859)  6回の探査結果を東西蝦夷山川地理取調図として纏める
           26冊の折り畳み式縦が2m40cm、横が3m60cm

明治2年(1869)  開拓判官に任命される。道名・国名・郡名撰定に尽力、叙従五位
     蝦夷地にかわる名称として、「日高見道」、「北加伊道」、「海北道」、
     「海東道」、「東北道」、「千島道」の6つの案を上申

     この中から 「北加伊道」が採用された。加伊はアイヌ民族を指す古い言葉

明治3年(1870)   開拓判官辞職(従五位返上) 
明治8年(1875)   北野天満宮へ大神鏡を奉納 上野東照宮に大神鏡を奉納
明治9年(1876)   上野東照宮へ大神鏡を奉納
明治12年(1879)   大阪天満宮へ大神鏡を奉納
明治13年(1880)  吉野の金峯山神社へ大神鏡を奉納
明治15年(1882)  太宰府天満宮へ大神鏡を奉納
明治18年(1885)  1月までに25霊社へ小神鏡と石標奉納
           第1回大台ケ原探査(68歳)
明治19年(1886)  第2回大台ケ原探査、「聖跡二十五霊社順拝双六」
明治20年(1887)  第3回大台ケ原探査 

明治21年(1888)  2月10日、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去
    遺骨は東京都豊島区駒込の染井霊園の1種ロ10号2側に埋葬されているほか、
    武四郎が最も好きだったという西大台・ナゴヤ谷に明治22年(1889年)に
    建てられた「松浦武四郎碑」に分骨されてもいる

聖跡二十五社天満宮
松浦武四郎は明治18年1月までに西日本の天満宮二十五社選んで聖跡とし、小神鏡と石標を奉納
聖跡二十五社天満宮は以下のとおりです。

第一番   菅原院天満宮 
第二番   錦天満宮   
第三番   菅大臣天満宮 
第四番   吉祥院天満宮 
第五番   長岡天満宮  
第六番   与喜天満宮
第七番   威徳天満宮
第八番   道明寺天満宮
第九番   佐太天神宮
第十番   大阪天満宮
第十一番  露天神社
第十二番  福島天満宮
第十三番  長洲天満宮
第十四番  網敷天満宮
第十五番  休天神社
第十六番  曽根天満宮
第十七番  大塩天満宮
第十八番  滝宮天満宮
第十九番  御袖天満宮
第二十番  厳島神社摂社天神社
第二十一番 防府天満宮
第二十二番 網場天満宮
第二十三番 太宰府天満宮
第二十四番 上宮天満宮
第二十五番 北野天満宮

綱敷天満宮の説明板

上の写真は綱敷天満宮の松浦武四郎と須磨綱敷天満宮について記載の現地説明板
撮影:2015-10-18
松浦武四郎が奉納した小神鏡の写真も掲示されています。

奉納者の間島吉延さんは神戸史談 292号(2003年7月)で「松浦武四郎と須磨綱敷天満宮」
と題して記事を投稿されています。

その他、兵庫県立図書館で松浦武四郎に関する記事は次のようなものがあります。
(下の写真)


西国街道に建つ石標と説明板





上の3枚の写真は西国街道に建つ石標と説明板です。撮影:2018-6-16
設置場所は本宮長田神社 菅の井広場の斜め対面です。
説明にも書かれているように「西国街道から綱敷八幡宮への案内標識」も兼ねています。
前述の兵庫県立図書館で松浦武四郎に関する記事リストで眞野修さんは歴史と神戸 194号
で失われた松浦武四郎の石碑という題で記載されており、現在の石碑は松浦武四郎が
奉納したものではなく復刻されたものです。

綱敷天満宮(神戸市須磨区)

地元では「須磨の天神さま」の愛称で親しまれています。
住所:神戸市須磨区天神町2-1  TEL078-734-0640
綱敷神社は菅原道真公所縁の神社であり全国に同名の神社が多数あります。
昌泰4年(901)に藤原時平の陰謀で菅原道真は都を追われ、九州の大宰府に
左遷されたおりに、風雨が強かったので一時須磨に上陸され、地元の漁師たちは
松の木の下に漁網の大綱を巻き、円座を作り、その上に管公を休息させました。
このときの綱を敷いたことにちなみ、綱敷神社の名称がつけられたようです。
実際には村の吉凶を占うため綱引きをしたのがつなしきに変化したという説もある。
24日、25日は例祭。1月15日に初天神。7月の七夕祭りや10月の須磨まつり源平夢行列
などの催しもあります。
神社内の由緒書きには以下のように紹介されています。
「延喜元年二月菅原道真公九州へ御左遷の御途次海上風波高く航しかねて此地に
上陸し給い里の浦人等は網の綱を丸めて円座として座を設けました道真公はここに
安居し給い暫く旅の疲れを休められ須磨の風光を賞でられた 菅公薨せられて後
七十六年目の天元二年時の須磨人等がその御像を模し祠を建ててお祀り申しあげた
のが当社の創始である。
 当天満宮は日本二十五社の内第十四番の霊社にして特に学問の神として崇敬厚く
真威赫々として庶民の信仰を集め霊験又顕著であります。」
上記の説明のように創始時期は天元2年(979)であります。
摂津国25社のうちの第14番霊社は菅原道真公の旧臣である武部家伝来の天満宮
御所在地記に明記されています。



上の写真は綱敷天満宮の拝殿と波乗り祈願の像 撮影:2014-2-25


関連ブログ:神戸の地に残る菅原道真の残照

松浦武四郎が建立した石碑については下記サイトが詳しい
松浦武四郎の石碑をたずねて ―聖跡二十五社天満宮巡拝―


北海道命名150年 松浦武四郎生誕200年に関するサイト
 https://hokkaido150.jp/
  松浦武四郎で検索すると詳しい資料を観れます

 松阪市のサイト:https://www.city.matsusaka.mie.jp/
 

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