2018年6月24日、追谷墓地に墓参りの為出かけていました。
その時、関戸由義(よしつぐ)の墓を確認するため19区の奥に行った時に初代神戸区長
武井正平(神戸区長在位 1878~1881)の墓を偶然見つけましたので写真紹介します。
上の写真は初代神戸区長 武井正平の墓
墓碑には「武井正平君之墓」と刻まれています。
上の写真は初代神戸区長 武井正平氏の顕彰碑
武井正平の略歴
天保年間(天保13年(1842)より以前)姫路藩士の武井領八の長男として生まれる
没年は明治14年(1881)8月18日 40歳くらいか
父の武井領八が早死にした為、弟の武井守正(天保13年~大正15年12月4日(1842-1926))
などの面倒をみる。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 都市(12-118)
神戸又新日報 1934.5.1-1934.8.3 (昭和9)
コウベ新風土記 太田陸郎著
上記の史料から武井正平氏と神戸市の誕生に関する部分をピックアップしました。
明治11年(1878)4月第二回地方長官会議終了後従来の大小区制が廃止されて
郡区町村編制法府県会規則及地方税則が発布されて12月1日神戸、兵庫、坂本村が
神戸区となり北長狭通四丁目に神戸区役所が開設されて武井正平氏が区長兼八部郡長
となりここに大神戸市が出現する第二期的な形態をなすに至った、
明治21年(1888)1月には相生町に神戸区役所の新築庁舎式があげられ後、
明治22年(1889)4月1日始めて市政を布き6月21日神戸市役所と改称された、
今も六月二十一日は開庁記念日としてお役所の休日である。
現在(昭和9年当時)の庁舎は明治四十二年十二月十八日竣工、建坪五百三十五坪
コンクリート石、煉瓦等と混用された建物であって当時スバラシイものだったと云うが
現代の大神戸市としてはさしてほこる程のものでなくなった、其西隣が神戸地方裁判所で
市役所との間にイカメシイ煉瓦の高塀にかこまれたのが裁判所の未決の居所世俗に橘座と
呼ぶがこの座にだけはあまり入場の希望者もあるまい
新修神戸市史 第1章Ⅰ第1節2には明治12年(1879)1月
区制廃止、1区(神戸区)33郡設置。初代区長に武井正平就任(~1881)
明治22年(1889)4月1日に神戸区に葺合村、荒田村を併合して神戸市が
誕生しました当時の人口は約13万5千人だったようです。
初代市長は鳴滝幸恭(なるたきこうきょう)、 初代庁舎は相生町1丁目の
元神戸区役所庁舎(6月21日開設)
最後に追谷墓地の説明板を添付して終了します。
上の2枚の写真は追谷墓園の現地説明板
その時、関戸由義(よしつぐ)の墓を確認するため19区の奥に行った時に初代神戸区長
武井正平(神戸区長在位 1878~1881)の墓を偶然見つけましたので写真紹介します。
上の写真は初代神戸区長 武井正平の墓
墓碑には「武井正平君之墓」と刻まれています。
上の写真は初代神戸区長 武井正平氏の顕彰碑
武井正平の略歴
天保年間(天保13年(1842)より以前)姫路藩士の武井領八の長男として生まれる
没年は明治14年(1881)8月18日 40歳くらいか
父の武井領八が早死にした為、弟の武井守正(天保13年~大正15年12月4日(1842-1926))
などの面倒をみる。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 都市(12-118)
神戸又新日報 1934.5.1-1934.8.3 (昭和9)
コウベ新風土記 太田陸郎著
上記の史料から武井正平氏と神戸市の誕生に関する部分をピックアップしました。
明治11年(1878)4月第二回地方長官会議終了後従来の大小区制が廃止されて
郡区町村編制法府県会規則及地方税則が発布されて12月1日神戸、兵庫、坂本村が
神戸区となり北長狭通四丁目に神戸区役所が開設されて武井正平氏が区長兼八部郡長
となりここに大神戸市が出現する第二期的な形態をなすに至った、
明治21年(1888)1月には相生町に神戸区役所の新築庁舎式があげられ後、
明治22年(1889)4月1日始めて市政を布き6月21日神戸市役所と改称された、
今も六月二十一日は開庁記念日としてお役所の休日である。
現在(昭和9年当時)の庁舎は明治四十二年十二月十八日竣工、建坪五百三十五坪
コンクリート石、煉瓦等と混用された建物であって当時スバラシイものだったと云うが
現代の大神戸市としてはさしてほこる程のものでなくなった、其西隣が神戸地方裁判所で
市役所との間にイカメシイ煉瓦の高塀にかこまれたのが裁判所の未決の居所世俗に橘座と
呼ぶがこの座にだけはあまり入場の希望者もあるまい
新修神戸市史 第1章Ⅰ第1節2には明治12年(1879)1月
区制廃止、1区(神戸区)33郡設置。初代区長に武井正平就任(~1881)
明治22年(1889)4月1日に神戸区に葺合村、荒田村を併合して神戸市が
誕生しました当時の人口は約13万5千人だったようです。
初代市長は鳴滝幸恭(なるたきこうきょう)、 初代庁舎は相生町1丁目の
元神戸区役所庁舎(6月21日開設)
最後に追谷墓地の説明板を添付して終了します。
上の2枚の写真は追谷墓園の現地説明板