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2017年日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に追加認定された神戸の7件の構成文化財

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2018年5月24日、文化庁は地域の歴史遺産や文化財の魅力を伝えるストーリーを認定する
「日本遺産」に13道県の13件を選んだと発表した。

兵庫県からは2017年度の日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間
〜北前船寄港地・船主集落〜」で5市町(神戸、高砂、赤穂、洲本市、新温泉町)を含む
27市町が追加認定された。

今回は、神戸のストーリーの7件の構成文化財を取り上げる。


1.神戸大学海事博物館
 北前船収蔵資料

  北前船の和船模型、和船部分実物、船大工の板図や大工道具類、航路図や海路図屏風
  絵馬などが展示されています。

  写真はすべて2011年12月9日の撮影




上の2枚の写真は北前船の模型


上の写真は徳川時代(江戸時代)の千石船の絵


上の写真は千石船模型(いさば作り)高砂市の曽根天満神社より寄託


上の写真は北前船の中で使用の箪笥など


上の写真は和船の製造に使用された大工道具類と船大工の板図




上の2枚の写真は塩廻船「住吉丸」の模型と説明書き


上の写真は展示室の遠景


2.敏馬神社「弁財船絵馬」
北前船の船主らが航海安全を祈願し敏馬神社に奉納された絵馬が残っています。


上の写真は三光丸の絵馬 奉納者:桝屋喜平次 延享3年(1746)元日に奉納 
平成19年(2007)4月神戸市の有形文化財に指定されています。
撮影:2011-11-25


上の写真は7号絵馬 撮影:2011-11-25


上の写真は13号絵馬 撮影:2011-11-25


上の写真は弁財船(樽廻船)の解説(現地説明板) 撮影:2011-11-25

3.神戸海洋博物館
北前船収蔵資料
 北前船の錨や船箪笥、ハカリ、筆箱など

 館内撮影禁止につき写真無し

4.高田屋嘉兵衛献上燈籠
北前船で財をなした高田屋嘉兵衛が海上交通安全を願って奉納した燈籠が現存




上の写真(2枚)が高田屋嘉兵衛の奉納の石灯籠。
奉納された時期は文政7年(1824)。
ちぢみ地蔵としても有名な鎮守稲荷神社の鳥居の外側に
高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠があります。

5.工楽松右衛門の墓


上の写真は工楽松右衛門の墓です。
所在地は神戸市兵庫区羽坂通2丁目1の八王寺(福昌寺)の境内です。
工楽松右衛門は北風家の番頭をしていた喜多二平の家に長年住んでいて、
研究を重ねながらついに帆の製造方法を発明した人物です。

工楽松右衛門の年譜を添付しておきます。Wikipediaの情報に修正加筆

1743年(寛保3年) - 播州高砂(現在の兵庫県高砂市高砂町東宮町)の漁師の
           長男として生まれる。姓は宮本 
1758年(宝暦8年) - この頃兵庫に出て、佐比江町にある「御影屋」という船主のもとで
          船乗りになる。その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知己を得て、
          その斡旋で佐比江町に店を構え、船持ち船頭として独立。
          持ち船を所有する廻船問屋として全国的に活躍
1785年(天明5年) - 木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功。
          「松右衛門帆」として全国に普及。
          のちに帆の開発で得た収益で「御影屋」を買収、当主となる。 
           
1790年(寛政2年) - 江戸幕府より択捉島有萌に船着場を建設することを命じられ着手する。
1791年(寛政3年) - この年の夏、択捉島の埠頭が竣工。2つの人工島を造成
1795年(寛政7年) -このころエトロフ島のシャナの港が完成。
1799年(寛政11年)- 高田屋嘉兵衛、エトロフ島とクナシリ島の航路を開く
1802年(享和2年) - 幕府から功績を賞され、「工楽」の姓を与えられる。
1804年(文化元年) - 箱館にドックを築造。その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った
           函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲る。
1808年(文化5年) -故郷高砂の港の船の往来を容易にするため、私費で浚渫工事実施
1810年(文化7年) -高砂に居を構える、高砂港の築港完成
 高砂湊の改築工事について「ひろかずのブログ」が詳しく記述されています。

1811年(文化8年) -鞆ノ津(広島県福山市)において大波止、明神波止の修増築を行う
1812年(文化9年) - 8月21日(新暦換算1812年9月26日)死去。墓所は高砂の十輪寺、
           供養墓は神戸市兵庫区八王寺(福昌寺)にある。

 年譜などのさらに詳細は工楽松右衛門の公式サイト

姫路藩の依頼を受け高砂の新田開発や港湾の修築事業を工楽松右衛門の2代目、3代目が
請負いその職責を全うした。

6.高田屋嘉兵衛本店跡地










上の5枚の写真は高田屋嘉兵衛本店の地記念碑(ポケットパーク)

下は説明板の記述です。
高田屋嘉兵衛と西出町のつながりは深く、寛政2年(1790)、淡路島から来住した
嘉兵衛は、当地で船乗りとしての頭角をあらわし、嘉兵衛が引退する文政5年(1822)
まで、高田屋の本店は西出町に置かれていました。
嘉兵衛は、津名郡都志本村に生まれ、22歳のときに西出町ん廻船問屋・堺屋喜兵衛の
もとに身をよせ、もちまえの勇気と努力によって、わずか4年後には、千五百石の
辰悦丸を建造し船持ち船頭になりました。やがて廻船問屋として独立し、蝦夷地(北海道)
の開発、日露間の紛争の解決などに活躍し、兵庫津の繁栄につくしました。
嘉兵衛が本店の地に定めた西出町は、ふるくは「佐比江の入り江」が深く入り込んだ
浜辺でしたが、江戸時代の前期に、兵庫津の出町として町場が形成され、北前船まどの
廻船がさかんに兵庫津へ寄港するようになると、「佐比江の入り江」は船入り江(北船入)
として活況を呈するようになりました。
この碑のすぐ西側には、明治中期まで船入り江がありました。
かつて船入り江をのぞんで高田屋の本店・倉庫などが建ち並んでいたと、
古老の話がのこされています。
2003年3月 西出・東出・東川崎地区まちづくり協議会

参考として元禄9年(1696)9月、坂田又右衛門が尼崎藩に対して提出した絵図(部分)と
神戸市埋蔵文化財センター「兵庫津遺跡第52次発掘調査報告書」の地図を添付します。
(下の2枚の写真)



佐比江の入り江や川崎船入江さらに旧湊川が描かれています。

高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)は

明和6年1月1日(1769年2月7日) 、淡路島
(現在の兵庫県洲本市五色町都志村)の農民の子として生まれる。
寛政2年(1790)22才で兵庫の西出町に移り船子。
       堺屋喜兵衛のもとで樽廻船の水主として活躍
寛政4年(1792)24才で船頭。
  江戸までの新酒輸送で一番乗りを競う新酒番船で優勝するなど優秀な船乗りであった
寛政8年(1796)辰悦丸(1,500石船)を酒田で建造し、船持ち船頭となる。
       当初は和泉屋伊兵衛との共同出資であったがのちに譲り受けた

上の写真は七宮神社奉納の辰悦丸の模型(上述「江戸時代の兵庫津」より)
  西出町に諸国物貨物運漕高田屋嘉兵衛の看板をあげていた。
  上方の塩、酒、綿糸などを積み込み日本海航路の阪田や越後でそれらを販売し
  米を買い入れ蝦夷地で売るという商売が当たり巨万の富を得る。
寛政10年(1798)函館に出店を開き、函館の基盤整備に私財を投じた
寛政11年(1799)近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人と接触し、
            信を得て蝦夷地交易を許可される。
            幕命で蝦夷地御用船頭となり択捉島への航路を開く
寛政12年(1800)択捉島の漁場を開く
享和元年(1801)幕府より苗字帯刀を許されている
              (蝦夷地常雇船頭に任じられる)
文化3年(1806)箱館の大火の折、被災者の救済活動と復興事業を率先して行う

文化9年(1812)幕府によりロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンが捕えられた報復として、
     高田屋嘉兵衛は国後島でリコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。
      注)P.I. リコルド(1776-1855)は当時ディアナ号副艦長
     ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、
     ロシア側を説得して翌年(1813)帰国。
文化10年(1813)帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無い
     ことを納得させ、人質解放に尽力した。
     日ロ双方に対し、献身的に折衝し、両国から賞賛された。
文政元年(1818)事業のすべてを弟の金兵衛に譲り、故郷の都志に隠居
           故郷の港湾改修などに協力

文政10年4月5日(1827年4月30日)59歳で生涯を閉じる。


7.舞子延命地蔵
北前船で財をなした北風荘右衛門などが航海の安全を祈願して造営された地蔵尊。


上の写真は舞子延命地蔵を正面から撮ったものです。

舞子の浜の沖合いは、昔から潮の流れが速く航海の難所として知られていました。
文政8年(1825)年おきを通る船の安全と村の平穏を願って、明石藩の許可を得て
玉垣に刻まれているように多くの方の寄進を得てお地蔵様が御影の石工により
建設されました。
延命地蔵尊を製作した石工の名前は摂州灘石屋村長谷文左衛門で
地蔵尊は文政8年(1825)4月13日に御影から舞子浜に船で運搬された。
建設は同年の10月から11月にかけて明石の石屋六兵衛が中心となり行われました。
完成は同年11月24日で餅まきが行われたそうです。
建設にあたっては山田村の庄屋中津源左衛門が摂州西成郡難波村の四国二十一
行者返礼中祖恵心と大坂堂嶋住吉屋喜助の協力を得て文政7年(1824)3月
24日に当時の郡代に設置の願書を提出したことに始ります。


昔は松ノ木の枝にできる榴のところを切ってきてそれで台座を叩きながらお経や
御真言をあげていましたが、戦後あるときからタタキ地蔵などと呼び
お地蔵様を叩いて拝みなさいと間違った説明をした為、木槌で叩かれた部分が
剥げ落ちてしまっています。台座を叩くようにしてくださいと注意書きされています。


上の写真は宝篋印塔(一番左)と供養墓や地蔵群です。
真ん中の供養塔には文政10年(1827)の文字が刻まれています。




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