2013年3月20日、神戸市東灘区にある3世紀後半の前方後方墳である処女塚を
訪問しています。その時に撮影した小山田高家の碑と田辺福麻呂の歌碑に焦点を当て
ブログ記事を作成していきます。
まず、処女塚古墳について簡単に記載していきます。
処女塚古墳の基本情報
住所:神戸市東灘区御影塚町2-10
形式:前方後方形 墳長:約68m 後方辺約39m 高さ 7m
前方幅約32m 高さ 4m
後方部 3段 前方部 2段 方位はほぼS
立地:砂堆上 標高8m 周辺低地からの比高 2~3m
外表施設:葺石あり(大半は黒雲母花崗岩)
埴輪は置かれていないがスタンプ文が施された壷が出土(山陰地方の特徴)
後方墳丘より鼓形器台(山陰地方の特徴)が出土
埋葬施設:後方部中央 棺は未調査のため不詳
後方部 南北13m、東西約2.5m花崗岩円礫と粘土 埋葬施設の上面か?
前方部東側中段に箱式石棺 長さ1m 幅0.25m 板石5枚
石棺の蓋石上から滑石勾玉比定築造年代:4世紀後半
史跡名勝天然記念物:大正11年(1922)3月8日に指定
整備事業:昭和54年度(1979)から国の補助金(60.4百万円)を得て整備された。
昭和59年度(1984)に完成したが完全な復原に至らず
所在地のGoo地図を添付しておきます。
古墳の際には、湊川の戦いに敗れた新田義貞を逃すためにこの地で討ち死にした小山田高家
の石碑と万葉歌人の田辺福麻呂の歌碑が建っています。
上の写真の右手が小山田高家の顕彰石碑、左手が田辺福麻呂の歌碑です。
上の2枚の写真は小山田高家の顕彰石碑と田辺福麻呂の歌碑の近景
上の写真は現地説明板。内容は下記のとおり。
小山田高家の碑
延元元年(1336)、湊川の戦いに敗れた新田義貞は、生田の森から東に
敗走して東明(処女塚付近浜辺)まで来た。しかし、近づいた追手の矢で
馬はたおれ、義貞は馬を降りて、処女塚に登って敵を防いだ、その窮状を
はるかに眺めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義を思い出して、
塚に駆け寄って自分の馬に義貞をのせて、東に逃れさせた。高家は塚上
に留まって敵を防いだが、味方の敗色は濃く、ついにこの処女塚の上で
討たれてしまった。
「太平記」の描くこの武勇を記念して、弘化3年(1846)の代官竹垣三左衛門
藤原直道が東明村塚本全左衛門・豊田太平・牧野壮左衛門に命じて
建てさせものである。
田辺福麻呂(さきまろ)の歌碑
「古の 小竹田荘士(しのだをとこ)の 妻問ひし 兎原処女(うねひおとめ)の
奥つ城ぞこれ」
この歌は、万葉の歌人、福麻呂が旅の途中で処女塚に立ち寄った時の現況と、
それから受けた感動を歌ったものである、古くから処女塚古墳には、東灘区住吉宮
町一丁目の東求女塚古墳と灘区都通三丁目の西求女塚古墳にまつわる悲恋の伝説が
言い伝えられている。
この伝説は、二人の男性が一人の女性を慕ったため、女性は身を処しかね、
嘆きつつ死んでしまった。
それを知った男性の墓を東西に造ったという物語である。側面には八十一
叟正四下位加茂季鷹とある、その左方に建碑年号と思えるものがあるが明
らかではない。
平成6年3月 神戸市教育委員会
ここで処女塚古墳についてもう少し詳しく記述していきます。
発掘調査
発掘調査時期:昭和54年度、昭和56年度、昭和57年度
トレンチ図
出典:昭和56年度遺跡現地説明会資料
前方部発掘状況
上の写真は前方部東斜面上段と小段(手前は箱式石棺)
北側より南側に向かって撮影されたもの
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
出土遺物は土師器、壺形土器破片、勾玉
特記事項としてはスタンプ文をもつ土器(山陰系の影響)の破片が見つかったことです。
上の写真は同じ場所の図
出典:昭和56年度遺跡現地説明会資料(1981)
上の写真は箱式石棺(北から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
小型のもので 長さ:92.5cm 北側の幅:30cm 南側の幅:25cm
材質は凝灰質砂岩と花崗岩。蓋石の真上より勾玉1個が発見された。
中段の段築を掘りこんで造られていることから古墳が造られたあとから追葬されたもの
上の写真は東側下段(北から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
上の写真は西側下段(北から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
後方部発掘状況
上の写真は後方部西側斜面(西から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
上の写真は西側下段(北から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
くびれ部の東西両下段から壺形土器が出土
上の写真は墳頂(南から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
墳頂から鼓形器台が出土
上の写真は墳頂石組(南から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
埋葬施設の一部と考えられるがどのような構造であったかは確認できず
莵原処女の悲恋伝説
処女塚古墳は西求女塚古墳・東求女塚とともに万葉集や大和物語などに登場する悲恋伝説
「菟原処女の伝説」の舞台としても知られている。
昔、小竹田男(しのだおとこ又はささだおのこ)と血沼丈夫(ちぬのますらお)という
二人の青年が菟名日処女(うないのおとめ)に恋をして、二人は同時に恋文を送りました。
女はどちらにも靡かず、生田川のオシドリを射当てた人に従うと答えますが、
すると二人の矢は同時に鳥を射止めます。
女は悩み抜いて川に身を投げ、その遺体は塚に築きこめられました。
その後、男たちも互いに刺し違えて死んだという…。
彼ら三人を葬った墓が処女塚と東西の求女塚の古墳だと言われています。
これら3つの古墳は大体等間隔で並んでいます。
また、謡曲「求女塚」などにも登場する古墳です。
上の写真は上述の伝説の場面を絵にしたものです。
出典:摂津名所図会
上の写真は処女塚古墳と東・西求女塚古墳の位置図
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
東求女塚古墳は処女塚古墳の東約1500mの位置する前方後円墳で一部が残っています。
万葉集に掲載の高橋虫麻呂の歌では処女塚の墓を中心におき菟名負処女(うなひおとめ)を
めぐって争った2人の男性のうち信太壮士(しのだおとこ)=小竹田男の墓だといわれて
いわれていますが実際のところはこの地方の豪族の墓であると思われます。
西求女塚古墳は処女塚古墳の西約2,000mにある前方後円墳で全部が残っています。
処女塚古墳を中心に西求女塚古墳の前方部が東向きに向いており東求塚古墳の前方部は
西向きに向いているのが面白い。
上記の地図をご参照ください。
関連ブログ:東求女塚古墳 on 2011-4-30
西求女塚古墳(求女塚西公園)訪問記 on 2011-4-30
参考写真:
上の写真は東求女塚古墳
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
上の写真は西求女塚古墳
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
2013年の処女塚古墳
詳細は下記ブログ:史跡 処女塚古墳 on 2013-3-20
上の写真は史蹟 処女塚古墳の遠景です。撮影:2013-3-20
上の写真は前方部(南側)より北側の後方部に向けて撮った写真です。撮影:2013-3-20
上の3枚の写真は処女塚道標とその説明板です。 撮影:2013-3-20
昭和初期の処女塚古墳
甲南漬の高嶋酒類食品(株)の3代目高嶋平介氏が「うはらの歴史再発見 ~ちょっと昔の東灘~」
という2000年に発刊された本のPage40-41で昭和初期の処女塚古墳について次のように
回想されています。
昔は処女塚古墳の南側のところまでが海辺であった。
莵原処女の悲話について両親から語り継がれていた。
処女塚古墳は当時、草ぼうぼうで周りは田んぼであった。
女の人は夜、塚付近を通ることを避けていた。
近所の人がお稲荷さんを祀っていた。