2017年10月12日、石山駅前(JRと京阪)にある松尾芭蕉像の写真を撮りましたので
写真紹介します。
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上の写真は石山駅前の松尾芭蕉像です。
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上の2枚の写真は現地説明板です。
説明内容について要約及び追記して記します。
松尾芭蕉(1644-1694)
伊賀上野に生まれた松尾芭蕉は貞享2年(1685)数え年42才の時に初めて大津を訪れた。
「野ざらし紀行」の旅の途中、大津に滞在していた芭蕉のもとに門弟が集まり、湖南蕉門
が形成された。以来、大津が気に入った芭蕉は、木曽塚(現在の義仲寺、大津市馬場1丁目)
に仮住まいし、その後(元禄3年(1690))近津尾神社(大津市国分2丁目)境内にあった草庵
「幻住庵」に滞在し、ここで過ごした4か月を「幻住庵記」に記しています。
元禄7年(1694)、芭蕉は弟子の酒堂(しゅどう:珍碩)と之道(しどう)の争いの調停のため、
大阪にいた折に御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」の離れで永眠。
「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺志により木曽義仲墓の横(義仲寺)に葬られた。
野ざらし紀行についてWikipediaより引用紹介します。
『野ざらし紀行』(のざらしきこう)は、江戸時代中期の俳諧師松尾芭蕉の紀行文。
貞享元年(1684年)秋の8月から翌年4月にかけて、芭蕉が門人の千里とともに出身地
でもある伊賀上野への旅を記した俳諧紀行文。
「野ざらし」は、旅立ちに際して詠んだ一句「野ざらしを心に風のしむ身かな」に由来する。
ちなみに、門出の歌に「野ざらし」はかなり縁起が悪い。
また、出立が甲子であることから「甲子吟行」とも呼ばれる。発句が中心となって文章は
その前書き、詞書としての性格が強く出ており、やがて文章に重きを置いた「笈の小文」を
経て句文が融合した「おくのほそ道」へと発展する嚆矢としての特徴が現れている。
芭蕉は前年に死去した母の墓参を目的に、江戸から東海道を伊勢へ赴き、伊賀上野を経て
大和国から美濃国大垣、名古屋などを巡り伊賀で越年し、京都など上方を旅して熱田に
一時滞在し、甲斐国を経て江戸へもどった。
写真紹介します。
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上の写真は石山駅前の松尾芭蕉像です。
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上の2枚の写真は現地説明板です。
説明内容について要約及び追記して記します。
松尾芭蕉(1644-1694)
伊賀上野に生まれた松尾芭蕉は貞享2年(1685)数え年42才の時に初めて大津を訪れた。
「野ざらし紀行」の旅の途中、大津に滞在していた芭蕉のもとに門弟が集まり、湖南蕉門
が形成された。以来、大津が気に入った芭蕉は、木曽塚(現在の義仲寺、大津市馬場1丁目)
に仮住まいし、その後(元禄3年(1690))近津尾神社(大津市国分2丁目)境内にあった草庵
「幻住庵」に滞在し、ここで過ごした4か月を「幻住庵記」に記しています。
元禄7年(1694)、芭蕉は弟子の酒堂(しゅどう:珍碩)と之道(しどう)の争いの調停のため、
大阪にいた折に御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」の離れで永眠。
「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺志により木曽義仲墓の横(義仲寺)に葬られた。
野ざらし紀行についてWikipediaより引用紹介します。
『野ざらし紀行』(のざらしきこう)は、江戸時代中期の俳諧師松尾芭蕉の紀行文。
貞享元年(1684年)秋の8月から翌年4月にかけて、芭蕉が門人の千里とともに出身地
でもある伊賀上野への旅を記した俳諧紀行文。
「野ざらし」は、旅立ちに際して詠んだ一句「野ざらしを心に風のしむ身かな」に由来する。
ちなみに、門出の歌に「野ざらし」はかなり縁起が悪い。
また、出立が甲子であることから「甲子吟行」とも呼ばれる。発句が中心となって文章は
その前書き、詞書としての性格が強く出ており、やがて文章に重きを置いた「笈の小文」を
経て句文が融合した「おくのほそ道」へと発展する嚆矢としての特徴が現れている。
芭蕉は前年に死去した母の墓参を目的に、江戸から東海道を伊勢へ赴き、伊賀上野を経て
大和国から美濃国大垣、名古屋などを巡り伊賀で越年し、京都など上方を旅して熱田に
一時滞在し、甲斐国を経て江戸へもどった。