大津宮はWikipediaによれば次のように纏められています。
近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が
近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇は
この宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。
天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の
壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
史料上は「近江大津宮」のほか「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」
とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの
指摘もある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で
宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。
現在、林博通氏の著書「幻の大津京を掘る」(2005)を借りており、この書籍及び
ネットの情報より大津宮や大津京の実態に少しでも近づかれたらと思い筆をとりました。
大津宮跡の発見
昭和49年(1974)11月18日、「近江大津宮錦織遺跡」の発掘調査が開始されました。
発掘調査は翌年(1975年)の3月まで継続。
上述のWikipediaの文章のように大津宮跡は「近江大津宮錦織遺跡」として昭和54年(1979)
7月2日、国指定の史跡に指定されました。平成22年2月22日追加指定
ここで、文化庁の国指定文化財等データベースの解説文を引用紹介します。
近江大津宮[[錦織]にしごり]遺跡: 近江大津宮は、天智天皇の宮都であり、同天皇6年(667)
3月に遷都が実行された。天智天皇7年、中大江皇子は天智天皇としてこの近江大津宮で
即位し、同年にはすでに内裏や濱臺が、8年には大蔵、9年には宮門、10年には新臺に
漏尅、西小殿、内裏佛殿、内裏西殿、新宮、大炊省などの諸建物が記録に見え、宮都の整備の
進展がたどれる。
天智天皇10年12月、天皇の崩御があり、続いて起る壬申乱による大友皇子の自縊とともに
廃都となる。したがって近江大津宮は6年間という短期間の宮城であり、宮城内の諸施設の
建設は記録に見えるものの、その京域については濱臺の名が見えるに過ぎず、関連諸建物の
建設や條坊の施行については全く記事を見ないだけに、実質的な整備はなお、十分では
なかったものと考えられている。
この近江大津宮の所在地については、記録・伝承を欠くこともあって、今日、大津市錦織町に
比定する説をはじめ南滋賀町、滋賀里町にあてる諸説があり未だに帰結するところを見ない。
昭和49年以来、滋賀県教育委員会が数次にわたって実施して来た大津市錦織2丁目周辺の
発掘調査により、近江大津宮推定地の一つである錦織2丁目御所之内地域の一劃、滋賀宮址
顕彰碑の建碑地を中心に天智天皇のころに属する遺物をはじめ、雄大な規模、斉整な配置を
もつ諸遺構が発見された。建物は、東西4間以上、南北1間以上の門跡をはじめ、この門から
東にのびる回廊を6間まで確認しさらに東に及ぶことが知られている。
この回廊の5間目から直角に北へ9間以上のびる柵が連なり、門・回廊・柵で囲まれる範囲は
広場となっている。この地域の北方、錦織1丁目字御所大平の地域でも、東西4間以上、
南北1間以上の建物が発見され、その西縁から西方へ柵が2間のび、その西端は南北に長く
7間以上連なる柵に連なる。建物の南には広場をつくり、その南に、南北の柵から東へ行く
5間以上の柵が見られる。
錦織1・2丁目の両所に見られるこれらの遺構は共に建物軸を真北にとり、相互に関連する
形で整然と配置され、巨大な柱穴と掘方を伴う柵列のあり方などを通じて考えるならば、
一種の官衙の構造であることを示している。遺物の時期が天智天皇のころにあること、
遺構の構造が宮の一画を暗示することからすれば、この遺跡は近江大津宮の重要な一部と
見ることも可能である。ただ、大津市南滋賀町、滋賀里町等の擬定地については十分な調査が
なされていない現在、錦織地区の本遺跡についてとりあえず明確な遺構をもつ地域をとりあげ
保存をはかるものである。
平成10年追加指定分
[近江大津宮錦織遺跡]おうみおおつみやにしごりいせき: 近江大津宮は、大津市西部、
JR西大津駅の北方約500メートルに位置し、天智6年(667)、天智天皇により
飛鳥の地から遷都された都である。しかし、壬申の乱(672年)によって近江朝廷側が
敗れ、この宮は廃棄された。この大津宮は、『日本書紀』に「浜台、大蔵、宮門、朝庭、
殿、漏刻台、内裏仏殿、内裏西殿、大蔵省第三倉、新宮、大炊」等の宮にかかわる建物等の
記載があるが、その実態はほとんど明らかではなかった。昭和49年、滋賀県教育委員会
による発掘調査により、当地一帯で宮の中心部分の一部が確認されるようになり、
内裏正殿・南門・回廊・塀・倉等が検出された。
指定は、当該地が住宅密集地であるため、保存のできる場所から実施しており、今回は、
南門の遺構の所在する地域を追加して指定し、保存を図ろうとするものである。
上の2枚の写真はJR大津京駅で見つけた大津宮錦織遺跡の説明板
上の2枚の写真は昭和49年(1974)11月から昭和30年(1975)3月にかけて発掘調査
された近江大津宮錦織遺跡の発掘状況を示した写真と図
内裏の南門(SB001)と回廊(SC001)及び足場組の柱穴(SX001)と見られる遺構を確認
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page19,page119
上の2枚の写真は内裏正殿の遺構
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page124、128
上の写真は近江大津宮錦織遺跡の発掘地点を記載した地図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page146
上の写真は大津宮中枢部(錦織地区)の推定復原図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page155
上の写真は内裏正殿(SB015)の平面復原図及び復原立面図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page151
大津京遷都の理由
諸説があり確定したものはありません。
663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたことを第一要因として考えるのが
一般的な傾向で、支持されています。
琵琶湖は水上交通されていますの要所で湖西に遷都して畿内と北陸・東国方面への交通
が便利であり防衛上も有利な位置であると思われます。
有力氏族や職人などの居住状況など宮を営むのに必要な環境が整っていたことも
有力な理由の1つであった。
さらに、従前より比良宮という行宮(あんぐう)が存在していた。
天智天皇はもともと大津に宮を造ることを構想していたとも考えられます。
関連事項として7世紀頃の古代山城の分布を添付しておきます。
白山江で大敗した日本の各地に百済からの避難した人達により多くの山城が建設された
大津京の所在地(候補地)
上の3枚の写真は大津宮所在地各説を地図と共に示したものです。
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page112,113、178
日本の首都の変遷
日本の首都の変遷を簡潔に纏められていますので添付しました。
出典:「再現・長岡京」 (表紙を下に添付しました)
向日市文化財調査事務所編、向日市埋蔵文化財センター編 (2001年3月)
何かまとまりの無い内容になってしまいましたがこの辺でアップします。
今後、関連地域や博物館を訪問し内容を補充していきたいと考えています。
近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が
近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇は
この宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。
天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の
壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
史料上は「近江大津宮」のほか「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」
とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの
指摘もある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で
宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。
現在、林博通氏の著書「幻の大津京を掘る」(2005)を借りており、この書籍及び
ネットの情報より大津宮や大津京の実態に少しでも近づかれたらと思い筆をとりました。
大津宮跡の発見
昭和49年(1974)11月18日、「近江大津宮錦織遺跡」の発掘調査が開始されました。
発掘調査は翌年(1975年)の3月まで継続。
上述のWikipediaの文章のように大津宮跡は「近江大津宮錦織遺跡」として昭和54年(1979)
7月2日、国指定の史跡に指定されました。平成22年2月22日追加指定
ここで、文化庁の国指定文化財等データベースの解説文を引用紹介します。
近江大津宮[[錦織]にしごり]遺跡: 近江大津宮は、天智天皇の宮都であり、同天皇6年(667)
3月に遷都が実行された。天智天皇7年、中大江皇子は天智天皇としてこの近江大津宮で
即位し、同年にはすでに内裏や濱臺が、8年には大蔵、9年には宮門、10年には新臺に
漏尅、西小殿、内裏佛殿、内裏西殿、新宮、大炊省などの諸建物が記録に見え、宮都の整備の
進展がたどれる。
天智天皇10年12月、天皇の崩御があり、続いて起る壬申乱による大友皇子の自縊とともに
廃都となる。したがって近江大津宮は6年間という短期間の宮城であり、宮城内の諸施設の
建設は記録に見えるものの、その京域については濱臺の名が見えるに過ぎず、関連諸建物の
建設や條坊の施行については全く記事を見ないだけに、実質的な整備はなお、十分では
なかったものと考えられている。
この近江大津宮の所在地については、記録・伝承を欠くこともあって、今日、大津市錦織町に
比定する説をはじめ南滋賀町、滋賀里町にあてる諸説があり未だに帰結するところを見ない。
昭和49年以来、滋賀県教育委員会が数次にわたって実施して来た大津市錦織2丁目周辺の
発掘調査により、近江大津宮推定地の一つである錦織2丁目御所之内地域の一劃、滋賀宮址
顕彰碑の建碑地を中心に天智天皇のころに属する遺物をはじめ、雄大な規模、斉整な配置を
もつ諸遺構が発見された。建物は、東西4間以上、南北1間以上の門跡をはじめ、この門から
東にのびる回廊を6間まで確認しさらに東に及ぶことが知られている。
この回廊の5間目から直角に北へ9間以上のびる柵が連なり、門・回廊・柵で囲まれる範囲は
広場となっている。この地域の北方、錦織1丁目字御所大平の地域でも、東西4間以上、
南北1間以上の建物が発見され、その西縁から西方へ柵が2間のび、その西端は南北に長く
7間以上連なる柵に連なる。建物の南には広場をつくり、その南に、南北の柵から東へ行く
5間以上の柵が見られる。
錦織1・2丁目の両所に見られるこれらの遺構は共に建物軸を真北にとり、相互に関連する
形で整然と配置され、巨大な柱穴と掘方を伴う柵列のあり方などを通じて考えるならば、
一種の官衙の構造であることを示している。遺物の時期が天智天皇のころにあること、
遺構の構造が宮の一画を暗示することからすれば、この遺跡は近江大津宮の重要な一部と
見ることも可能である。ただ、大津市南滋賀町、滋賀里町等の擬定地については十分な調査が
なされていない現在、錦織地区の本遺跡についてとりあえず明確な遺構をもつ地域をとりあげ
保存をはかるものである。
平成10年追加指定分
[近江大津宮錦織遺跡]おうみおおつみやにしごりいせき: 近江大津宮は、大津市西部、
JR西大津駅の北方約500メートルに位置し、天智6年(667)、天智天皇により
飛鳥の地から遷都された都である。しかし、壬申の乱(672年)によって近江朝廷側が
敗れ、この宮は廃棄された。この大津宮は、『日本書紀』に「浜台、大蔵、宮門、朝庭、
殿、漏刻台、内裏仏殿、内裏西殿、大蔵省第三倉、新宮、大炊」等の宮にかかわる建物等の
記載があるが、その実態はほとんど明らかではなかった。昭和49年、滋賀県教育委員会
による発掘調査により、当地一帯で宮の中心部分の一部が確認されるようになり、
内裏正殿・南門・回廊・塀・倉等が検出された。
指定は、当該地が住宅密集地であるため、保存のできる場所から実施しており、今回は、
南門の遺構の所在する地域を追加して指定し、保存を図ろうとするものである。
上の2枚の写真はJR大津京駅で見つけた大津宮錦織遺跡の説明板
上の2枚の写真は昭和49年(1974)11月から昭和30年(1975)3月にかけて発掘調査
された近江大津宮錦織遺跡の発掘状況を示した写真と図
内裏の南門(SB001)と回廊(SC001)及び足場組の柱穴(SX001)と見られる遺構を確認
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page19,page119
上の2枚の写真は内裏正殿の遺構
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page124、128
上の写真は近江大津宮錦織遺跡の発掘地点を記載した地図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page146
上の写真は大津宮中枢部(錦織地区)の推定復原図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page155
上の写真は内裏正殿(SB015)の平面復原図及び復原立面図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page151
大津京遷都の理由
諸説があり確定したものはありません。
663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたことを第一要因として考えるのが
一般的な傾向で、支持されています。
琵琶湖は水上交通されていますの要所で湖西に遷都して畿内と北陸・東国方面への交通
が便利であり防衛上も有利な位置であると思われます。
有力氏族や職人などの居住状況など宮を営むのに必要な環境が整っていたことも
有力な理由の1つであった。
さらに、従前より比良宮という行宮(あんぐう)が存在していた。
天智天皇はもともと大津に宮を造ることを構想していたとも考えられます。
関連事項として7世紀頃の古代山城の分布を添付しておきます。
白山江で大敗した日本の各地に百済からの避難した人達により多くの山城が建設された
大津京の所在地(候補地)
上の3枚の写真は大津宮所在地各説を地図と共に示したものです。
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page112,113、178
日本の首都の変遷
日本の首都の変遷を簡潔に纏められていますので添付しました。
出典:「再現・長岡京」 (表紙を下に添付しました)
向日市文化財調査事務所編、向日市埋蔵文化財センター編 (2001年3月)
何かまとまりの無い内容になってしまいましたがこの辺でアップします。
今後、関連地域や博物館を訪問し内容を補充していきたいと考えています。