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汽船豊瑞丸沈没死者追悼紀念碑 in 能福寺 on 2013-1-4

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2013年1月4日に撮影した海難碑「汽船豊瑞丸沈没死者追悼紀念碑」について
調べて見ましたので紹介します。


上の写真が海難碑「汽船豊瑞丸沈没死者追悼紀念碑」
右手の弥勒菩薩石像の左側奥にあるのがその海難碑です。

汽船豊瑞丸は1856年にイギリスで製造されナンバーワン号と呼称されていた汽船で
薩摩藩が元治元年(1864)に購入し豊瑞丸と名付けました。
慶応4年(1868)2月、「孟春丸」、「豊瑞丸」、「雄飛丸」が日本で初めて
艦隊行動を行い、大阪から横浜まで兵員の輸送を行っている。
明治初年(1868)東出町の薩摩屋が薩摩藩のものを借り受け神戸-鹿児島航路に
使用されていましたが後に台湾航路に使用されるようになりました。

銘文には下記のように書かれています。
「不幸哉、豊瑞丸到千台航海中為河野浦丸所衝突、沈没於広島下忠海之沖、溺死者
十有六名、実明治廿九年六月一三日也、平等聞之、不堪悲惨、於是二三同志公募
表損、幸得金若干仍其一頒遺族其一建碑 溺死者 氏名省略」

国土交通省海難審判資料「海事社会の沿革」には下記のように記載

明治29年(1896)6月13日 汽船豊瑞丸汽船河野浦丸衝突事件発生(広島県大久野島灯台付近)16人死亡(判定・大阪船舶司検所 12月14日)


兵庫津の海運事情


通常、船が兵庫の港に入るためには和田岬をまわらなければならなかった。
兵庫の和田岬付近では高い波が発生し、強い南風が吹く為、海難事故が多かった。
東西に大きな運河を掘れば、和田岬を回ることなく安全に兵庫津に入港することが
できる。
兵庫運河の計画は明治7年の兵庫新川(出在家町から島上町の半円形の新川運河)
開設の時からあったが、実行できなかったものである。
上記の新川運河の建設に功があったのが神田兵右衛門と島田重五郎である。

兵庫運河を実現させたのが魚問屋や内国貿易で成功した八尾善四郎である。


神戸市兵庫区の祥福寺にも海難碑があります




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