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岡山城訪問記(金箔が彩る宇喜多秀家の烏城) on 2019-4-5

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2019年4月5日、岡山城を訪問した時の写真を紹介します。

 

岡山城の基本情報

住所:岡山市北区丸の内2丁目3−1

建立時期:慶長2年(1597)

別名:烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)

岡山城の公式サイト:https://okayama-kanko.net/ujo/index.html

 

天守閣

 

上の写真は岡山城の入口付近からの遠景

戦国時代に、備前東部の邑久郡から興った宇喜多直家が岡山の地・石山にあった岡山城の前身

にあたる城砦に入城したのは天正元年(1573)の秋であった。

石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小さな城にすぎなかったが宇喜多直家が金光宗高を

謀殺しこの地を支配した。直家はこの城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄

の基礎をつくった。直家の子の宇喜多秀家は天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東

「岡山」に本丸を移し石山城を取り込む形で城郭が建造された。その後小早川氏、池田氏により

整備、拡張が行われた。 明治2年(1869)の版籍奉還により藩主の池田章政は岡山藩知事に

明治6年(1873)の廃城令により順次建物の取り壊しや堀の埋め立てが実施され、明治15年

(1882)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった。明治23年

(1890)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896)

には本丸趾に県立岡山中学校が建てられた。こうして昭和初期頃までには城跡と見受けられる

のは本丸を残すのみとなり、五重の濠に囲まれた巨大な城郭は市街地へと姿を変えた。

昭和20年(1945)に岡山空襲で天守と石山門が焼失し、月見櫓と西手櫓が現存するだけとなった。

本丸跡の学校は昭和29年(1954)に移転し烏城公園として整備され、昭和41年(1966)に

天守閣が復元され観光施設ともなっています。昭和62年(1987)に史跡に指定されてからは、

歴史に視点を置いた整備が求められるようになり、平成4年度から本丸跡中の段で発掘調査

コンクリート建物の撤去、石垣の解体修理、江戸時代末期の建物の表示、築城期の石垣の露出展示

などが行われています。発掘調査や復元事業は本段や下の段にも実施整備されてきています。

岡山城の地図

上の写真は現地説明板の地図 

岡山城の古写真

 

上の写真は岡山城の古写真(明治初年(1968))と説明板 岡山城天守の展示より

 

廊下門

 上の写真は廊下門 上屋は本段(住居)と中の段表書院(藩庁)を結ぶ城主の通路として

使われたためこう呼ばれた。昭和41年(1966)に鉄筋コンクリートで再建された。

月見櫓

上の写真は月見櫓

宇喜多秀家時代の石垣

上の写真は宇喜多秀家時代の石垣展示

 

表書院跡

 

 

上の3枚の写真は表書院跡と現地説明板

不明門

 

上の2枚の写真は不明門(復元)と現地説明板

 

天守より後楽園を臨む

 

宇喜多秀家

Wikipediaによる宇喜田秀家(1572~1655)の解説。
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将・大名。
豊臣政権下の五大老の一人。通称は「備前宰相」。
大名家としての宇喜多氏最後の当主であり、備前岡山57万4,000石の大名。
八丈島で83歳の天寿をまっとうしたようです。

宇喜田秀家公の墓所は
東京都八丈町大賀郷の稲場墓地
丹船山薬王樹院東光寺(東京都板橋区)

お舟入りと御座船の展示パネル


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