2019年12月8日、明石市桜町の白雲通沿いにある白雲の桜と白雲の碑を観てきました。
写真を中心にして紹介します。
上の2枚の写真は白雲の桜の全体 所在地は明石市桜町8−19
桜町は東は天文町、西は本町、南は鍛冶屋町と相生町に囲まれています。
所在地のGoo地図を添付しておきます。
上の写真は白雲通の南側から北側に向けて撮ったもので、通りの右手に鳥居が見えて
いるところが白雲桜の場所です。
上の写真は現地に掲示の白雲桜の説明板
そのまま引用紹介します。
白雲桜は、元は大きな枝垂(しだれ)桜で、当時江戸から見物に来るほど美しい
さくらであったと伝えられている。第8代明石藩主・松平直明(1682-1701)が、
この桜を詠んだ「幾千枝の柳も兄や絲(いと)さくら」という発句も残されている。
その桜にちなんで、江戸時代の中頃に「東土手ノ町」と呼ばれていた通りが、
「櫻丁」に変わり、現在の町名「桜町」に引き継がれてきている。
江戸時代を通して広く知られたこの桜は、代を重ね、明治44年(1911)、
外堀を埋めて道路にする工事が行われたとき、この地に移植され、橋本海関の
撰文による桜の由来などが刻まれた「白雲櫻」の碑が建てられた。
この白雲の櫻」は万葉歌人で歌聖と称えられた柿本人麻呂の歌より名付け
られたものと伝えられている。
上の写真は上述の「白雲の櫻碑」橋本海関の撰文の碑
上の写真は平成12年12月12日の建立された白雲桜に関する説明した石碑
記載内容を要約及び加筆して記しておきます。明石城外堀に面した一角の武家屋敷
五十嵐三右衛門の屋敷の裏庭に大きな枝垂桜があり花がまるで白雲たなびくような
形状で白雲の櫻と呼ばれ名所となった。明石藩主松平直明は「幾千枝の柳の兄や絲
さくら」と読まれ享保10年(1725)の春には、わざわざ定周が江戸より見物にきた
というくらいに見事な美しい枝垂れ桜であった。
桜町の由来はこの白雲桜による。明治維新の激しい変革の中、外堀を埋める造成工事
が行われた。この地周辺は魚住又市郎氏が請け負いとなり7か月かけて明治45年(1912)
3月に竣工をみるにいたった。この時五十嵐家に伝わる4代目の桜の老木を惜しみ現在地に
移し替え、保存された石碑などはこれを記念して建てられた。
その後、台風で倒され枯れ死して、今あるのは5代目の樹である。
平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災により、碑や玉垣などが倒壊したが楠秀雄氏の
寄進で再建された。
上の写真は敷地名の祠。
白雲桜にキツネの親子がすんでおり、うどん屋に「キツネの恩返し」をした昔話が
存在しています。この祠はそれに関連したものか、単に五十嵐家の庭にあったものか
想像すると面白い。
上の写真は敷地内の石灯篭
白雲の櫻の由来として、柿本人麻呂が詠んだ「しら雲の色の千種に見ゑつるはこのもかのもの
さくらなりけり」という歌からこう呼んだとの説もあります。