2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
これからシリーズで書いていこうと思っています。
本日はその初回で坂本城本丸跡を紹介します。坂本へは今回で3回目の訪問です。
坂本城の歴史
坂本城は元亀2年(1571)比叡山の焼き討ちのあと、織田信長に命じられて明智光秀
が建てた城です。光秀は比叡山焼き討ちの功労として近江国滋賀郡が与えられた。
坂本城は天正8年(1580)に改築されたが天正10年(1582)の本能寺の変の後、
炎上したが、同年に丹羽長秀が羽柴秀吉の命により坂本城を再建された。
天正11年(1583)杉原家次が城主となり、同年浅野長政(長吉)が城主となった。
天正14年(1586)浅野長政が棄城し、大津城に移転するまで存在した。
坂本城本丸跡の碑
現在、国道161号(高島-大津線)の沿道、キーエンスの研修所の門の脇には大津市
教育委員会により建てられた坂本城本丸跡の碑文が建っています。(上の写真)
キーエンス研修所の住所は大津市下阪本3丁目2-20
Goo地図を添付しておきます。
坂本城本丸跡の碑文
上の写真が坂本城本丸跡の碑です。
読み難いので碑文を書いておきます。
坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、
明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。
天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査で
はじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。
大津市教育委員会
坂本城の縄張り
上の写真は坂本城跡公園に掲示の坂本城跡
坂本城跡公園の掲示資料
Wikipediaより坂本城の本丸天守に関する解説を引用添付しておきます。
元亀3年(1572年)12月22日の吉田兼見の記述によると、「明智見廻の為、坂本に下向、
杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了」(『兼見卿記』)
とされていることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌12月頃には天守がかなり
進捗していたと思われている。短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が伺い知れる。
また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』にも、
フロイスの日本史(坂本城の記述部分ではない)
「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの
大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって
豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは
天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想では
あるが、名城安土城と並び称される建物として意識されていた。