2020年4月8日 NHK BSプレミアム 「英雄たちの選択」で秀吉の中国大返し
について考察した番組の中で「兵庫城の御座所普請」に関して千田嘉博さんが
神戸市埋蔵文化財センターと兵庫城跡(現在イオンモール神戸南)を訪問され
解説された内容についてレビューします。
まず、上記の番組内容を概略記述します。
天正10年(1582)6月2日、明智光秀謀反の本能寺の変勃発。この直後、秀吉の中国大返しが行われた。
大軍の高速移動はなぜ可能になったのか?最新の城郭研究から、その幻のシステムに迫る。
本能寺の変に端を発した秀吉の中国大返しは、“戦国の奇跡”とよばれる。
備中高松城から姫路城まで100キロにおよぶ行程を大軍が驚異的な速度で取って返した。
いかにして秀吉は不可能を可能にしたのか?近年の城館調査や中国大返しの再検証によって、
“幻の大返しシステム”の存在が、浮かび上がってきた。
城郭考古学者の千田嘉博さんが、現地を徹底調査し、中国大返しの真相に迫る大胆仮説が披露された。
上の写真は番組のタイトル
上の写真は新しい考え方を披露された千田嘉博教授
次に兵庫城の歴史概要を記述します。
天正8年(1580)、池田恒興(信輝)と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって
兵庫の地を与えられてからは、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、
東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の傘下に入った。
これを機会に池田氏は花隈城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
『花熊落城記』1732年に花隈城を解体し兵庫城の用材として利用したとの記録あり。
その地点は、現在イオンモール神戸南が建つ中之島・切戸町である。
兵庫城は天正9年(1581)に築城が完成。その構造は平城で、
織田信長の築いた安土城や旧二条城とともに最古級の城で胴木が石垣の最下段に
敷かれ初期の平城の築城技術として織田信長が採用した技術を継承するものと
して貴重である。
海上交通の要所である兵庫津に兵庫城を築城する意味は織田信長が西国大名に
備える拠点として信長自身の命で建設されたもので兵庫城が重要視されていた
ことが伺い知れます。
その後、天正11年(1583) 池田恒興の美濃へ転封に伴い兵庫と尼崎が
三好(豊臣)秀次に与えられる。さらに天正13年(1585) 羽柴秀吉の
直轄領となる。片桐且元が代官となり、「片桐陣屋」と呼ばれる。
東西、南北ともに140m~160mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。
元禄9年(1696)紺屋安右衛門(南仲町絵師) によって書かれた
摂州八部郡福原庄兵庫津絵図野中に御屋敷として堀に囲まれた図が残されています。
古来兵庫は1184年の源平合戦一の谷の戦い、1336年の湊川の合戦以降
たびたび大きな合戦が続き、そのつどひどい戦災を受けた。
兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。しかし信長・秀吉による全国統一
がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
兵庫城跡は江戸時代に入り元和3年(1617)、尼崎藩領となり、藩の陣屋となり、
明和6年(1769)、幕府 領となってからは、大坂町奉行所に所属して、
与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。
慶応4年5月23日(新暦換算1968年7月12日に1次兵庫県が成立この時初代の
県庁がこの地に置かれました。
兵庫城関連年表(2015-1-31の現地説明会で配布された資料より)
天正8年(1580) 池田恒興が築城。荒木村重の花熊城を解体し、
その用材を用いたとの記録がある(『花熊落城記』1732年)
天正11年(1583) 池田恒興、美濃へ転封。
兵庫と尼崎が三好(豊臣)秀次に与えられる。
天正13年(1585) 羽柴秀吉の直轄領となる。片桐且元が代官となり、
「片桐陣屋」と呼ばれる。
慶長元年(1596) 慶長伏見地震。兵庫津も被害を受ける。
元和3年(1617) 尼崎藩領となる。「兵庫陣屋」が置かれ、奉行が駐在
元禄9年(1696) 『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』が描かれる。
「御屋敷」と表現される。
明和6年(1769) 幕府直轄領となり、「勤番所」が置かれる。
このころ、堀が埋められ町屋となる。
文久2年(1862) 『兵庫津之圖』が描かれる。
「御番所」の周りも町屋となっている。
明治元年(1868) 兵庫県庁が置かれる。4ヶ月で移転する。
明治7年(1874) 新川運河開削により、中心部の大半が削られる。
今回のキーワード1「御座所 普請」
上の写真は羽柴秀吉書状に出てくる「御座所 普請」
御座所とは高貴な方(ここでは織田信長)が宿泊される場所
織田信長が出馬される前に毛利攻めの拠点の城には御座所が整備されていった。
その城の1つが兵庫城であった。
ここには宿泊の為の建物や付属の施設が整えられていた。
さらに十分な兵糧も用意されていた。
上の2枚の写真は番組で使用された兵庫城の発掘調査結果に基づく建設当時、
天正9年(1581)頃の兵庫城 正面に入り口が2か所設置された。
手前の外堀に近い赤丸印のところが御座所に入るための入り口。
信長一行がすばやく入場できるように設計されていました。
兵庫城は毛利氏の支配する中国地方征伐の重要拠点の一つで御座所が設置され
御座所へ入る入り口が設けられた。
(写真は神戸市埋蔵文化財センター3階で説明される千田教授)
当時の城の石垣つくりにおける最新技術「胴木組」が兵庫城の石垣でも採用
坂本城(1572年)や安土城(1576年)でも胴木組の技術が採用されています。
兵庫城の発掘調査などに関して過去に書いたブログ:
兵庫津遺跡第62次調査 2015-3-28現地説明会 兵庫城 天守台跡発見
兵庫津遺跡第62次調査 現地説明会 on 2014-6-28
番組では兵庫城での御座所以外に兵庫県加西市の小谷城(垣屋源三郎が普請)、
山梨県甲府市の徳川家康が信長の為に建設した右左口(うばぐち)宿が御座所の
例として紹介されました。
上の4枚の写真は加西市の小谷城について案内役の知立市教育員会の中川さんは
小谷城が西は津山、東は京都、北は鳥取、南は姫路を俯瞰できる立地であること
横堀、外枡形など信長の時代の城づくりの特徴などを説明
今回のキーワード2「軍道の整備」
番組では滋賀県と福井県の県境、標高400mの尾根道に柴田勝家が信長の命令で
建設した軍道の例が紹介された。(上の2枚の写真)
さらに、御座所の存在と軍道が整備されていたことで中国大返しが容易に実現
できたと結論づけられました。
神戸市埋蔵文化財センターでの取材
上の写真は兵庫城の石垣の展示前で赤の服が千田教授、応対は斎木さん
上の3枚の写真は神戸市埋蔵文化財センター1階に展示の兵庫城の石垣と説明パネル
撮影:2020-5-27
上の写真は神戸市埋蔵文化財センター3階で兵庫城の説明をされた千田教授
上の2枚の写真は神戸市埋蔵文化財センター3階に展示の兵庫城の石垣に使用された
石造品と説明パネル 撮影:2020-5-27
イオンモール神戸南(兵庫城跡)での取材
上の写真は兵庫城跡の上に建つイオンモール神戸南に復元された石垣の前の千田教授