本日は日本で最初に開通した新橋-横浜間で蒸気機関車の機関士(運転手)を務めた
英国人ジョン・ホールを取り上げます。
日本の最初の鉄道はよく知られているとおり明治5年(1872)9月12日(新暦10月14日)
であるが岩倉使節団が出発した明治4年(1871)11月12日(新暦換算12月23日)時点で
新橋-横浜間の測量が開始(明治3年(1870)3月より)されており大隈と伊藤が資金を
捻出するために奔走し、鉄道建設反対派の西郷、大久保の説得に当たっていた時である。
最終的には資金面ではイギリスから100万ポンドの資金調達を受け30万ポンドが鉄道建設
資金に、70万ポンドは財政再建に充てられています。
明治政府がスタートして間もない頃は財政難、士族の不満や一般市民の世直し一揆
などが頻発しており明治政府が信頼されていなかったのに対し大隈は次のような
言葉で鉄道の必要性を説いています。
「全国の人心を統一するには余程 人心を驚かすべき事業が必要である
鉄道が一番良い。」
これから本題に入りジョン・ホール(1844-1914)について紹介していきます。
ジョン・ホールは1844年英国スコットランド・タルメリトンで生まれました。
明治5年(1872)4月24日、日本で初めて鉄道が開設される為、明治新政府より
招聘されA.T.ロバーツ、ジェームス・ロバーツと共に来日し機関士として採用
されました。ジョン・ホール(John・Hall)のフルネームはジョン・ムルドー・ホール。
鉄道開設時(明治5年秋)のジョン・ホールの俸給は日給4円(3ドル8セント)であった。
明治8年(1875)6月1日辞職したが2年後の明治10年(1877)6月再び採用され、従来
と同じ新橋、横浜間の蒸気機関車を運転していたが、12月には京都、神戸間の運転
にあたることとなった。その頃から新橋-横浜間、京都-神戸間において日本人機関士が
初登場したので、その後外人機関士は漸次不要となったのである。
明治18年(1885)、内閣鉄道局勤務となり辞職したのはいつのことか不明であるが
明治21年(1888)11月、山陽鉄道(現JR)の神戸-明石間の営業が開始したのに伴い
ここで働いてたのではと思われます。
明治25年(1892)ジョン・ホールは須磨一の谷の景勝地(安徳天皇内裏跡)付近の
景勝に心をひかれ、ここに邸を建てて住み始めました。
上の写真はジョン・ホールの住んでいた家 出典:2)のPage54
ジョン・ホールはこの家を暁の別荘「ドーン・ヴィラ(Dawn Villa)」と名付けて
いました。
この地はその後、外国人が多く住むことになった為、「異人山」と呼ばれていた。
また外国人の間では「Suma Gluff」と呼ばれていました。
Gluffとは山手とか絶壁という意味です。
元須磨浦療病院の医師、井上門司さんの記憶によれば、大正時代の初期この異人山
にはジョン・ホールの親友のマーシャル、ワトソン、フランクリン、フラット、
日本人を妻としたポール、ドイツ人プラットテ、ハイトマン、オランダ人の
バンボットら11戸、家族を合わせると15-16名と語られています。
この異人山には鈴木商店の金子直吉、モルガンお雪などが借りて住んでいた話も
有名でインターネットでも紹介されています。
マーシャルは異人山の一番北の端に7,000坪もある敷地に75坪の2階建て洋館を建て、
一人で住んでいた。この土地はマーシャルの死後、塩田組社長の塩田富造氏が
買い取り神戸南洋植物パークとした。洋館は塩田迎賓館として使用されました。
現在、異人山の家屋はすべて消滅しています。昔の面影は神戸南洋植物パークの
南洋植物の一部が残るのみである。
上の写真は須磨異人山のマーシャル邸のちに塩田迎賓館 出典:1)のPage24
上の写真は須磨異人山の異人館(昭和34年) 出典:3)のPage52
上の写真は修法ケ原の外人墓地に眠るジョン・ホールの墓碑 出典:1)のPage53
墓碑には「1844年スコットランド・タルメリントンで生まれ、大正3年(1914)
須磨一の谷ドーン・ビラにて死去 享年75歳」とのみ記されています。
ジョン・ホールは一生独身であった。酒好きで近くの「松の家」や「海月館」で
飲み、ほがらかで屈託のない人であったと前述の井上医師は語られています。
参照資料:
1)鴻山俊雄 著「神戸の外国人 : 外国人墓地と華僑風俗」華僑問題研究所 1984.6
2)須磨神戸市編入50周年記念誌 昭和45年(1970)
3)神戸市須磨区役所編 「須磨の近代史 -明治・大正・昭和-」平成10年(1998)