2020年11月24日(火)、臨済宗南禅寺派のお寺で、スズメ寺やモミジ寺として
知られている神撫山(じんぶさん)禅昌寺を訪問し境内の紅葉と句碑の写真を撮ってきましたので紹介します。
禅昌寺(ぜんしょうじ)の基本情報
住所:神戸市須磨区禅昌寺町2丁目5-1 TEL:078-732-2590
山号:神撫山(じんぶさん) 宗派:臨済宗南禅寺派(大応派)
通称:雀のお宿(スズメ寺)や紅葉寺として知られています。
本尊:十一面観音。
創建:延文年間(1356~1361年)月庵禅師宗光により創建
後光厳天皇(1338-1374 在位=1352-1371)の勅願による
禅昌寺は下記の摂津国の五山十刹制度の諸山(五山・十刹に次ぐ「諸山」格の幕府公認禅宗寺院
宝満寺(開基法燈国師) 南禅寺派 (法燈派) 神戸市長田区
福海寺(開山在庵禅師) 南禅寺派 (宗覚派) 神戸市兵庫区
廣厳寺(開山明極禅師) 南禅寺派 (明極派) 神戸市中央区
福厳寺(開山佛燈国師) 南禅寺派 (大覚派) 神戸市兵庫区
禅昌寺境内の紅葉
上の8枚の写真が当日撮った禅昌寺境内の紅葉です。
上の写真は当日、偶然見つけた銀杏の落ち葉の間から存在感のある珪化木の勇
上の写真は本堂と方丈の建物遠景と背山の紅葉を撮ったものです。
句碑と漢詩碑
次に禅昌寺境内の句碑と漢詩碑を写真紹介します。
上の写真は禅昌寺さんが作成された境内の句碑の配置図ですこの番号を利用して
句碑の写真と簡単な説明を付け加えました。
①観楓の詩(伊藤博文作)
上の写真が伊藤博文詩碑です。
「聞通老僧移錫処 延文遺跡尚存留
満山紅葉無人稀 風色蕭々古寺秋 」と書かれています。
明治初年、伊藤博文が若くして初代兵庫県知事のころ、
秋の一日この禅昌寺に観楓に来たときの作です。
裏面には昭和26年3月 武貞一族大法要 と書かれています。
禅昌寺の床の間に同じく伊藤博文の詩(下記)が飾られています。
「清時不用問桃源携酒来尋紅葉邨
漫擬当年狂杜牧青尊相対到黄昏」
②松尾芭蕉の句碑
上の写真は松尾芭蕉の句碑「友待つと 見へず紅葉に 一人(ひとり)かな」と
書かれています。句意は禅昌寺は紅葉の名所。友を待っている様にも見えないが
一人で燃えるような紅葉を見ている。モミジ寺としての風情がよく表れています。
松尾芭蕉が禅昌寺を訪問したかどうか不明であるが下に記述のように須磨の地を
訪れたのは4月の中旬であり、秋の時期ではない。
実際に禅昌寺を訪問していたとしても秋の姿を想像して創作された句である。
松尾芭蕉が神戸の地に足を踏み入れたのは貞享5年(同年の9月30日に元禄と改元)
3月19日(新暦換算:1688年4月19日)尼崎を船出し兵庫に夜泊しています。
時に芭蕉45歳、奥の細道の旅に出る前年のことでした。少なくとも3月21日までは
滞在していた。23日に京に帰るとの記述あり(猿雖宛て手紙)
松尾芭蕉が窪田猿雖(えんすい)に宛てた手紙(下に添付)が神戸&明石訪問
の証となっています。窪田猿雖の別名で惣七と呼ばれることもある。
この手紙の中に訪問した場所が詳細に記述されています。
十九日あまが崎出舩。兵庫に夜泊。相国入道の心を尽されたる経の嶋・わだの御崎・
わだの笠松・だいり屋敷・本間が遠矢を射て名をほこりたる跡などききて、
行平の松風・村雨の旧跡・さつまの守の六弥太と勝負し玉ふ旧跡かなしげに過て、
西須磨に入て、幾夜寝覚ぬとかや関屋のあとも心とまり、一ノ谷逆落し・鐘掛松
・義経の武功おどろかれて、てつかひが峰にのぼれば、すま・あかし左右に分れ、
あはぢ嶋。丹波山、かの海士が古里田井の畑村など、めの下に見おろし、
天皇の皇居はすまの上野と云り、其代のありさま心に移りて、女院おひかかえて
舟に移し、天皇を二位殿の御袖によこだきにいだき奉りて、宝剣・内侍所
あはただしくはこび入、あるは下々の女官は、くし箱・油壷をかかえて、
指櫛・根巻を落しながら、緋の袴にけつまづき、ふしまろびたるらん面影、さすがに
みるここ地して、あはれなる中に、敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候。
磯ちかき道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして
戦場に望み、熊谷に組ていかめしき名を残しはべる。その哀、其時のかなしさ、
生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ。此一言梅軒子へも伝度候。
すま寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗に候。蝉折・こま笛・料足十疋、見る迄もなし。
この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に帰りて泊る。
廿一日布引の瀧にのぼる。以下略
3月20日に芭蕉らは須磨の現光寺境内の風月庵に宿を取ったといわれている
③滝瓢水の句碑
上の写真が禅昌寺の境内にある滝瓢水(滝野瓢水)の句碑です。
「本尊は釈迦か阿弥陀か紅葉(もみじ)かな」と書かれています。
以下は滝瓢水(滝野瓢水)の人物紹介です。
瓢水は江戸時代中期に活躍した俳人である。貞享元年(1684)別府(べふ)村
(現・加古川市別府)に生まれた。
父は船問屋「叶屋」の主人の3代滝新右衛門政清、母はおさんの1人息子であった。
幼少時は叶屋新之丞有恒(かのうやしんのじょうありつね)と称した。
4代新右衛門有恒と称し、俳号に瓢水のほか富春斎(ふしゅんさい)や自得(じとく)
野橋斉(やきょうさい)などがある。
7歳のとき父新右衛門が死亡。祖父の2代新右衛門清春に溺愛され育てられた。
母おさんの兄で学者の福田貞斎に預け、好きなだけ学問させる。貞斎は俳諧も好み
新之丞に手ほどきしたところ、19歳のとき井上千山の撰集「当座払」に入集した。
大阪の松木淡々の門に入り句集に名を連ねた。
別府(べふ)の住吉神社には瓢水が名付けた「手枕の松」もある。
俳諧に没頭し家業(船問屋)を怠り蔵を売ったとき(享保18年(1733))
「蔵売って日あたりの善き牡丹かな」と句を詠む。
姫路藩主酒井忠恭(ただすみ)公が訪れたとき話の途中でふいに須磨まで
月を眺めに旅たつなど奇行で知られる。
亡き母の墓前で孝行できなかったことを悔いて
「さればとて 石に布団は 着せられず」と句を詠むなど瓢水の句は洒脱なだけでなく
人間味にあふれて、現在でも多くの人に親しまれている。
宝暦12年(1762)、5月17日(現在暦では7月8日) 大坂で没。享年78歳。
遺骸(いがい)は持明院(大阪市天王寺区生玉町)に埋葬、境内に今も墓碑が残る。
加古川市の鶴林寺には「ほろほろと雨そう須磨の蚊遺(かやり)かな」の句碑が
あります。
鶴林寺の句碑紹介サイト(小生のBlog)
④瀬川露城の句碑
上の写真は禅昌寺の瀬川露城の句碑で
「濃き薄(うす)き 紅葉(もみぢ)やいづれ 寺の塵」と詠まれています。
作者の瀬川露城(本名は正夫。別号に俳禅窟、寝覚庵)は姫路の人で嘉永4年(1851)
生まれ、明治15年(1882)豊岡師範の教師をやめて実業界に入り、明治40年(1907)
4月、松尾芭蕉の墓がある大津義仲寺無名庵第十五世となって粟津正風会を創立しました。
芭蕉をまつる翁(おきな)堂の修築や境内の整備などにつとめた。
昭和3年(1928)5月8日 78歳で没。
ひところ大阪や須磨に住んだといわれています。
代表作
秋草をうゑこみて「さまざまの露ひとむらのさかり哉」
粟津野に深田も見えず月の秋
大寺の甍に傾る紅枝垂
観山神の派手に狂うて花ふぶき
神戸史談 No.263 昭和63年(1988)8月のPage41~50で澤田幸男さんが
「神戸の句碑を訪ねて」という題目で神戸市内の76の句碑を紹介されています。
その中に禅昌寺の句碑の項で上記の句碑以外に下記の句碑が紹介されています。
田村家苑「茶殻干す庫裡に陽弱し寒雀」
吟水庵「雀の子ひとつ跳んでは親を見る」昭和38年11月23日大平孟建立
お寺の方に確認したところ現存しないとのこと。
須磨の名刹 禅昌寺の至宝
現在、板宿にある百耕資料館で特別展「須磨の名刹 禅昌寺の至宝」が開催されています。
方丈の玄関にポスターが貼ってありましたので写真添付しておきます。
興味のある方は是非、足をお運びください。
特別展「須磨の名刹 禅昌寺の至宝」の要項
会期:2020年11月21日(土)~12月20日(日) 開館時間:10:00~16:00
場所:一般財団法人 武井報效会 百耕資料館(神戸市須磨区板宿町2丁目2-1 育英幼稚園内)
休館日:毎週月曜日
入館料:大人300円(250円)中・高・大の学生200円(150円)( )内は団体20名以上
特別展の内容:第1部 禅昌寺の歴史と文化
第2部 禅昌寺の美術
公式サイト:百耕資料館 (ikuei.ac.jp)