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ポーランド クラクフのコペルニクスの銅像

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昨日(2020-11-27)、NHKBS3の世界まち歩きという番組でポーランドのクラクフ

街歩きで表題のコペルニクスの銅像が紹介されていたので写真紹介します。

上の写真がポーランド クラクフのコペルニクス(1473-1543)の銅像

この銅像の詳しい情報は下記のサイトを参照して下さい。(英文)

 Nicolaus Copernicus Monument, Kraków - Wikipedia

 

銅像は1899年から1900年に Cyprian Godebski(ポーランドの彫刻家)によって設計製作。

当初はthe Jagiellonian University's Collegium Maiusに設置されていたが1953年に

クラクフの 植物公園、Witkowski大学の建物前に移設された。

上の写真はコペルニクスが18歳でヤギェウォ大学(Jagiellonian University)に入学し4年間、

自由七科を履修した。中世の大学のシステムは下記のようになっています。

出典:総合世界史図表 第一学習社(1987)Page75

コペルニクス(1473-1543)はクラクフ大学で自由七科を学んだ。

Wikipediaよりコペルニクスがどのような学問を履修したのか引用紹介します。

コペルニクスの後見をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでおり、1491年にコペルニクスは
クラクフ大学に入学し、自由七科を学んだ。この過程で月の精密な軌道計算を史上はじめて行った
著名な天文学者で、従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていた
アルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。
さらにニコラウスが化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の
彼の本からも窺うことができる。1495年に学位を取らずにクラクフ大での学業を終えると、
叔父の計らいでヴァルミアの律修司祭の職につき生活の保障を得、1年ほどバルト海沿岸にある
フロムボルクにいたあと、1496年にはイタリアのボローニャ大学に留学し、
法律(カノン法)について学んだ。カノンとローマ法について学んでいる間に、
彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラ
出会い、その弟子となった。1500年にはボローニャ大学での学業を終え、ローマを見物
したのちにいったんフロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って
1501年に再びイタリアに留学した。今度の留学先はパドヴァ大学であり、ここでコペルニクスは
今度は医学を学んだ。この際、コペルニクスは当時医療に必須とされていた占星術も学んでいる。
パドヴァでの学生生活は2年間に及び、最終的には1503年にフェラーラ大学でカノン法の博士号を
取ったのちにヴァルミアに戻り、再び律修司祭の職に就いて、こののちヴァルミア地方および
その近隣から出ることはなかった

 

コペルニクスは1510年頃 「コメンタリオルス」(Comentariolus、同人誌)
太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。
コペルニクスの最晩年の1543年 『天球の回転について』を表します。

地動説を元に、実際に星の軌道計算を行った

1543年5月24日永眠

遺骨はポーランド、フロムボルクの大聖堂に埋葬されています。(DNA鑑定で確証済)

 

 

 


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