2020年10月28日、山陽電車の西飾磨駅で下車し北西の英賀城跡を目指して歩き出し
帰りは山陽電車の夢前川に南下して戻るコースで散策してきました。
巡った場所をシリーズで書いていきます。
本日はその第8回で英賀五差路の「河下口の跡碑と大木濠跡の碑」について
写真紹介します。
散策に当たって下記の資料を持って巡回しました。
シリーズ過去の記事にリンク
第1回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その1 今在家地蔵 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第2回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その2 英賀城広江口石碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第3回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その3 道標 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第4回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その4 英賀城本丸跡石碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第5回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その5 中浜地蔵 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第6回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その6 英賀薬師周辺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第7回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その7 歌乃の清水の石碑と道標 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
⑧の位置が河下口の跡碑と大木濠跡の碑
設置場所は英賀五差路付近(姫路市飾磨区英賀清水町2丁目)
①細川地蔵 ②英賀城広江口石碑 ③道標 ④英賀城本丸跡石碑 ⑤中浜地蔵
上の写真は英賀城河下口之址の石碑(左)と英賀城大木之濠址の石碑(右)
英賀城 河下口之址の石碑
現在は石碑が残るのみで遺構らしきものは残っていません。
そこで、昔の英賀城復元図より河下口及び大木口の位置を明示
上の写真は河下口と大木口の位置を示した地図(本丸跡の現地説明板より)
地図は北が下になっていますので注意
上の写真も英賀城の復元図で大木口と河下口を明示しました。
下記文章は本丸跡の現地説明版による英賀城の解説文です、
英賀城(あがじょう)
岩繋城(いわつぎじょう)ともいう。
南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変つごうのよい
城であった。鎌倉時代には、とりでが、造られていたが、室町時代になると播磨の
守護大名であった赤松氏の一族が守った。
しかし嘉吉の乱(1441年)によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。
天正8年(1580年)秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を
中心にその周辺を支配し、一大勢力を誇っていた。城内には本丸・二の丸をはじめ、
一族がそれぞれ大きな屋敷を構えた。また英賀五坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や
住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町、約九百軒)として大いに賑わった。
昭和13年ごろまでは図に示したように土塁が残っていたが、今では英賀神社と英賀薬師
(城主の墓所・宝寿寺跡)の北側だけに残っている。また英賀御坊跡は昭和13年ごろ
夢前川の付替工事により消滅した。その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。
平成6年12月 姫路市教育委員会
英賀城大木之濠址碑
英賀城北部の濠を大木の濠と言われていました。
落城後は水田となっていた。
昭和46年(1971)記念の碑が建立されました。
上の写真は石碑のある五差路の道路標識