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須磨駅家(大田町遺跡) 

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須磨駅家(大田町遺跡)について調べて纏めてみました。

参照資料は以下のとおりです。

1) 兵庫県教育委員会編 大田町遺跡発掘調査報告書
    神戸市大田郵便局等新築工事に伴う発掘調査報告書(1993)

2) 兵庫県教育委員会編 兵庫県古代官道関連遺跡調査報告書Ⅳ(2018)

3) 兵庫県立考古博物館編 風土記1300年記念特別展「古代官道 山陽道と駅家」(2014)

4) 神戸市教育委員会編 平成10年度神戸市埋蔵文化財年報(2001)

須磨駅家の概要

須磨駅家は畿内摂津国西端の駅家で、藤原純友に襲われた須岐駅の候補の一つ

とされています。(芦屋駅家の説もあり)

現在のところ須磨駅家の所在地の有力候補である神戸市須磨区大田町・戎町にある

大田町遺跡では「荒田郡 中富里 荒田直□□」と書かれた奈良時代前期の円面硯が

出土しており郡を越えた官衙があったことが推測されます。

荒田郡が当地(大田町)のことを指すのならば、雄伴郡成立前に荒田郡と呼称されて

いたことが判り、興味深い資料である。

大田町遺跡からは上記円面硯のほか奈良~平安時代の堀立柱建物、山陽道の側溝と

思われる溝、皇朝十二銭(和同開珎、萬年通宝、神功開宝等)や銅製丸鞆、越州窯青磁、

緑秞陶器、灰秞陶器などが出土しています。

大田町の西にある行幸町遺跡や天神町遺跡からは銅製鉸具(かこ)や古大内式軒丸瓦

帯金具が出土しておりこちらも須磨駅家の候補地にあがっています。

上の写真は太田町遺跡、行幸町遺跡及び天神町遺跡の位置を示しました。出典:2)のPage16

天神町遺跡の位置には西国街道沿いにあった旧前田家邸宅跡(神戸市須磨区天神町)

があり、前田家はその昔、駅家の管理運営を任されていた駅長の末裔ではないかと思われ、

しかも、後に須磨の関が設けられる位置で、この周辺に駅家があったものと推測されます。

前田家の邸内には、元宮長田神社があり、前田家は大宰府神社へ毎年、ここの菅原道真

所縁の菅の井の水を届けていたそうです。

上の写真は須磨天神町遺跡から出土した古大内式軒丸瓦の破片

出典:4)Page218

 

明治期の地図と大田町遺跡

上の写真は明治18・19年の地図で赤で大田町遺跡の位置を示しました。

上の写真は明治18年(1885)の大田町遺跡(須磨駅家)の位置 出典:2)Page16

 

須磨駅家~明石駅家間の山陽道

上の写真は須磨駅家~明石駅家の山陽道のルート 出典:1)Page57

須磨駅家~明石駅家の山陽道のルートは、近世と同じく海岸沿いを通っていたか、

鉢伏・鉄拐山の切り立った崖の続く海岸ルートを迂回して

須磨駅家~多井畑~塩屋~舞子~朝霧~明石駅家を経由する多井畑ルート

須磨駅家から北に向かい白川峠を通り布施畑から大山寺、長坂を通過し明石駅家に

到達する白川ルートが考えられています。

 

 

大田町遺跡出土の円面硯

上の写真は大田町遺跡から出土の内面硯  出典:3)Page46

上の2枚の写真は内面硯を図示したものです。文面「荒田郡 中富里 荒田直□□」

出典:1)Page71

 

大田町遺跡の発掘調査

 大田町遺跡は平成2年(1990)んの試掘調査によって発見された遺跡で平成3年

 (1991)1月23日~3月20日、関西文化財調査会により第1次発掘調査が実施された。

 続いて同年に第2次及び第3次発掘調査が行われています。

 発掘調査の概要については以下の表のとおりである。 出典:1) Page1

また発掘調査の場所については以下のとおりである。 出典:1)Page2

発掘調査はその後も継続して実施され神戸市教育委員会の平成27年(2015)の

神戸市埋蔵文化財年報では第19次にまで進んでいます。

第1次~第3・5次調査で奈良時代から平安時代の堀立柱建物を中心とする遺物から

古代山陽道に置かれた「須磨駅家」の有力候補と考えられてきている。

しかしながら、その後の発掘調査では須磨駅家跡の決定的な遺物は出土していない。 

駅家関連用語

(1)官道

上の2枚の写真は古代官道に関する解説図です。

都のある畿内(大和、山城、摂津、河内、和泉)以外の地は七道(山陽道、東海道、

東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道)に分けられ都から放射状に官道が各国府

へ向けて走った。

大路:山陽道

中路:東海道、東山道、北陸道

小路:山陰道、南海道、西海道

(2)駅家(うまや)

大宝元年(701)の大宝律令の制定により中央集権的な国家体制を目指して大和朝廷は

五畿七道と呼ばれる行政区画を設置し、官道を整備していった。

都(藤原京、平城京、平安京)から大宰府まで伸びる古山陽道はその中でも重要な官道であった。

古代山陽道は都から大宰府までの約800Kmを5日の行程で往来しました。(160Km/1日)

これらの官道には公の使者に馬や食料を提供し宿泊もできる駅家(うまや)又は単に駅と

呼ばれる施設をほぼ30里(約16Km)ごとに設置した。古山陽道では8km毎に設置。

駅家の施設としては、業務を行い駅使の宿泊施設となる区画施設を伴う駅館(駅館院)、

厩舎と水飲み場、食事の調理場、馬具・駅稲・酒・塩などの倉庫などがありました。

駅家は孝徳天皇大化2年(646)正月「駅馬伝馬を置け」の詔により創設された。

上の写真は布勢駅家(兵庫県たつの市)の模型

(3)駅鈴

駅使など公の使者が朝廷より支給された鈴で、駅家や駅馬使用の許可証にあたります。

(4)駅使(えきし)

駅馬に乗用して往来することを許された公使のことです。

中央から諸国に派遣される使者(朝使)には文書を伝達する使者(送書使)と派遣先

で特定業務を行う使者(検校使)がいます。諸国から中央へ向かう使者には国司が

任じた「四度使(よどのつかい)」と呼ばれる朝集使、計帳使、税帳使、貢調使があり、

税物や多くの報告、帳簿を中央に提出した。

(5)駅戸(えきこ)

駅戸は駅務に服する義務を負った特定の農民です。

(6)駅子(えきこ)

駅使の乗用する駅馬の飼育者で駅戸の課丁があてられました。

尚、須磨駅家での駅馬は13疋との記録があります。

(7)駅長

駅長は駅戸の中で富裕で才能のあるものが選ばれ、原則として終身の間任用されました。

須磨駅家では前田家の祖先がその任にあったとされる。

(8)駅起稲(駅稲)

各駅家を運営するための財源として都の兵部省により管轄。

駅田として大路では4町、中路では3町、小路では2町と規定

4町から収穫される白米は約4,800Kgになります。


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