NHKの大河ドラマ「青天を衝け」2021年5月23日放送「篤太夫、薩摩潜入」を視聴した。
当日、湊川神社の初代宮司で薩摩藩士であった折田年秀(要蔵:1825-1897)が登場。
この役は徳井優さんが演じておられました。
折田要蔵は「摂海防禦御台場築造御用掛」の肩書を何度も繰り返していた人物です。
上の写真は折田年秀像 出典:折田年秀日記 第1(1997.11)
番組では平岡円四郎から渋沢篤太夫(とくだゆう)という武士らしい名前を与えられた
栄一は単身大坂へ行き、台場について学びたいと言って折田要蔵(年秀)の塾に入門。
台場の築造に関わる大量の文書と下絵図の書き写しに励んだ。そして、薩摩藩の京都での
動きも探った結果、折田は島津の殿様の使いで山階宮(やましなのみや)様のもとに
参殿し、禁裏御守衛総督の座を得るための裏工作をしていることを掴み円四郎に報告。
また、折田要蔵は大風呂敷を広げるばかりで信用できないことも円四郎に報告。
このことが禁裏御守衛総督、摂海防禦指揮の両役に一橋慶喜、京都守護職に松平容保が
再任、京都所司代に容保の弟で桑名藩主の松平定敬(さだあき)が就任に繋がった。
番組最後の紀行において湊川神社とオリーブの樹について紹介された。そこで、湊川神社
と折田年秀というテーマでブログを書いていきます。
明治維新後、新政府がまだまだ混乱の時代であった時、政府は有用植物栽培研究に
乗り出し、外国産植物を積極的に栽培することを奨励していました。
明治6年(1873)、ウィーン万博の事務副総裁であった佐野常民は初めて日本に
オリ-ブ樹を持ち帰り、兵庫県勧業場「神戸植物試験場」(現在の県公館付近)に
植え付けました。
佐野常民と湊川神社の初代宮司の折田年秀は懇意で現在も湊川神社の境内に残るユーカリ
は佐野常民が持ち帰ったもので、この頃に植えられたものです。
上の写真は湊川神社内のオリーブの樹 撮影:2019-3-3
関連ブログ:
日本最古オリーブ、枯死の恐れから復活 in 湊川神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
徳川幕府は摂海(大阪湾)の防衛の為、台場を築造することを決めた。そこで、
御台場築造掛に任命されたのが薩摩藩の折田年秀(要蔵:1825-1897)です。
Wikipediaによれば折田要蔵について以下のように紹介しています。(一部加筆)
折田 要蔵(おりた ようぞう)は、幕末の薩摩藩士。砲術家。湊川神社初代宮司。
名は年秀。文政8年(1825)7月7日鹿児島県滑川筋に生まれる。
幕末の鹿児島藩士・湊川神社宮司。別名に要蔵、三国屋要七。号は五峰。昌平黌に入り、箕作阮甫に蘭学を学ぶ。砲術にすぐれ、早くから国事に奔走し、文久3年の薩英戦争では砲台築造・大砲鋳造の主事、慶応4年には西園寺総督の参謀となる。明治3年に官を退いたあと、明治6年湊川神社創立と同時に初代宮司となった。明治30年(1897)歿、73才。
祖父田中玄淵の薫陶を受け、天保10年(1839年)造士館に入学。弘化2年(1845年)江戸に遊学して昌平黌に入るが、留学中藤田東湖、また特に箕作阮甫から蘭学を学んで西洋兵学に精通する。嘉永元年(1848年)蝦夷地・樺太に渡って見聞を広める。嘉永6年(1853年)黒船が来航すると水夫や鍛冶師に扮して蒸気船や大砲の視察を行った。安政2年(1855年)徳川斉昭の求めに応じて軍艦や海防について論じて称された。しかし同年に志士を糾合する謀略が明るみになったことから江戸町奉行に捕らえられ、薩摩に送られる。
文久3年(1863年)薩英戦争が起こると砲術に精通していたことを買われ、砲台の建造と大砲製造の主事を務めた。同年、島津久光の上京に従軍。元治元年(1864年)摂津沖の防備を急務と考える島津久光の命を受けて湾岸防備設備の設計を行って久光に提出した。久光から献策を受けた幕府より台場造営を命じられ、100人扶持。なおこのとき、一橋家家臣だった渋沢栄一が内偵のために一時期内弟子となっている。また久光に建言して楠木正成ら南朝の忠臣らの顕彰のため、湊川の戦いの跡地に英霊を祀ることを上奏させている。慶応4年(1868年)山陰道鎮撫総督参謀書記として山陰道を西進し、生野代官所が抵抗を見せたためこれを破る。総督西園寺公望から代官所の占領を命じられ、直後に発生した一揆への対応に苦慮するが、鉄砲隊を駆使して鎮圧に成功した。同年、府中裁判所が設置されると判事に就任。
明治3年(1870年)官を辞し、三国屋要七と名乗って京都で武器商人に転身した。明治6年(1873年)かねてより建立を建言していた湊川神社の初代宮司に任じられる。明治10年(1877年)廣田神社宮司に転任を命じられたものの、これを辞退し引き続き湊川神社宮司を務めた(明治11年(1878)2月9日)。明治15年1月内務省御用掛に転ぜられたが、同年4月11日に3度目の湊川神社宮司に復帰。明治30年(1897年)1月5日湊川菊水文庫の官舎で没。
薩摩藩の楠社創建計画と創建の系譜
国家として楠木正成を祭祀する神社を創建するべきだと最初に建白したのは薩摩藩であった。藩士折田要蔵(折田年秀)が楠社創建をその主張を始めたのだった。折田要蔵は昌平坂学問所や藤田東湖の塾で学び、正成崇拝の思想も水戸学の影響を強く受けたとみられる。1863年(文久3年)、島津久光に付き添って、上京したおりの11月15日に建白を行っている。
以下、年譜形式で湊川神社創建の経緯について記述していきます。
元治元年(1864)2月9日(新暦換算1864年3月16日):
島津久光が護良親王、楠木正成の霊を祀る神社を摂津に創建を朝廷に建議
慶応3年(1867)11月8日(新暦換算1867年12月3日):
尾張藩元藩主の徳川慶勝が、正成を祀る神社の京都創建を、近衛家を通じて朝廷に建議 朝廷は建議を承認。11月21日(1867.12.21)、朝廷は近衛忠煕を通じて尾張藩に具体案を要請し、尾張藩は場所を神楽岡の尾張藩邸地と報告した。正成を祀る神社の京都創建が内定した。
慶応3年(1867)12月7日(1868.1.1):神戸開港。
慶応3年(1867)12月9日(1868.1.3):王政復古の大号令が出された。
慶応4年(1868)1月3日(1868.1.27):鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争のため、神社創建は中断した。
慶応4年(1868)1月11日(1868.2.4):神戸事件、三宮神社前を東進中の備前藩の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と藩兵の軽微な接触に端を発し、沖に停泊中の外国艦隊(米・英・仏計18隻)から陸戦隊が上陸し備前藩と交戦した(「神戸事件」)。外国軍は居留地を占拠し、東西に関門を設けて日本人の通行を制限し、維新政府に恫喝的書状を送った。両軍に死者は出ていない。維新政府は、勅使・東久世通禧を神戸に派遣した。東久世は神戸運上所で6か国公使と会見し、天皇親政の国書を手渡して日本側の政権交代を告げ、衝突事件の日本側の責任を認め、責任者の処刑を約束した。備前藩小隊長瀧善三郎が、外国側と日本側立会いの下、兵庫永福寺で切腹した。
慶応4年(1868)1月15日(1868.2.8):
勅使・東久世通禧、神戸で外国代表に政権交代を告げ事件処理。
慶応4年(1868)1月22日(1868.2.15):
東久世は、新設の行政組織である兵庫鎮台(後、兵庫裁判所、兵庫県)総督就任。
慶応4年(1868)2月2日(1868.2.24):兵庫鎮台を兵庫裁判所と改称。
慶応4年(1868)3月22日(1868.4.14):
兵庫裁判所役人6人が連名で、東久世を通じて、維新政府に正成を祀る神社の湊川創建を建言し認められた。朝廷と雄藩の混成部隊である維新政府は、戊辰戦争で大混乱していた。そこへ、神戸事件処理という大手柄を立てた東久世経由の請願である。建立費用はすべて地元で調達するというこの請願はすぐに承認された(3月29日)。
建言を起草したのは元薩摩藩士の岩下片平である。
政府は兵庫県に神社創建を委任した。県は予定地に高札を立て寄附と勤労奉仕を
募った。全国から続々と寄付が寄せられ、寄付金総額は、2万4千両に達した。
摂津・播磨だけで6千両であった。地元住民も勤労奉仕で湊川から土砂を運んで
神社予定地に投入した。創建費は寄付と勤労奉仕でまかなった。朝廷が下賜した
営繕費3千両は手つかずであった。政府は湊川神社のために「別格官幣社」という社格を新設した。
慶応4年(1868)4月3日(1868.4.25):東久世から兵庫裁判所役人に請願受理の達書
明治4年(1871)6月17日(1871.8.3):政府、湊川神社造営を兵庫県に委託(太政官布告)
明治5年(1872)1月:社殿の着工をし、5月上旬に完成した。5月24日に鎮座祭
明治5年(1872)5月25日(1872.6.30):湊川神社の創建(別格官幣社)楠公祭が行われた。
明治5年(1872)7月8日(1872.8.11):明治天皇が九州・四国行幸の帰途、湊川神社へ行幸する予定で神戸に立ち寄ったが、暴風のため、行幸は当日になって中止された。(第1回神戸行幸)
明治6年(1873)4月28日:折田年秀、初代宮司に就任
明治13年(1880)7月20日:明治天皇、湊川神社行幸(馬車で境内通過)
明治18年(1885):大楠公殉節550年祭を挙行
上の写真は2018年の湊川神社の初詣風景 撮影:2018-1-2
上の写真は湊川神社絵馬 撮影:2019-3-3
折田年秀日記
折田年秀は湊川神社宮司時代に残した克明な日記(明治6年3月13日~明治30年9月9日)は
湊川神社が「折田年秀日記」(全3巻)として翻刻出版しています。(1997年11月刊)
この日記は当時の神戸居留地や日本の姿を伝える貴重な1次史料である。
上の写真は折田年秀日記 全3巻 湊川神社所蔵 出典:折田年秀日記 第1(1997.11)