昨日(2021-6-11)、NHKEテレ 高校講座「世界史」章懐太子墓(李賢墓)の壁画と
永泰公主墓の壁画が紹介されていましたので写真紹介します。
中国の唐時代(608-907)の初期
章懐太子墓(李賢墓)の壁画
上の写真は章懐太子墓(李賢墓)の墓道の壁画
上の写真は章懐太子墓(李賢墓)の墓道の壁画「客使図」=外国使節図
上の写真は打馬球図(馬毬図)(部分)
他に狩猟図、朝貢図、儀仗図(儀衛図)、托盆景待女図、観鳥捕蝉図、小憩図、游園図
青龍図、白虎図、出行図、日、月、星宿図などの壁画があります。
章懐太子墓(李賢墓)は中国、陝西(せんせい)省乾県(けんけん)にある李賢(りけん)
(654―684)の墓。李賢は唐3代皇帝高宗(在位649-683)と則天武后の次子。
675年に皇太子となったが、その後に廃され、684年に四川省巴中(はちゅう)県で自殺。
ときに31歳であった。706年7月に高宗と則天武后の合葬墓である乾陵へ陪葬され、
711年章懐太子妃房氏を合葬するために改修された。
墓は方形台状の墳丘を有し、地下には墓道、過洞、天井、小龕(しょうがん)、
甬道(ようどう)、前室、後室を南北に連ねる施設をもつ。
李賢は追封された雍王(ようおう)の礼をもって陪葬されたため、懿徳(いとく)太子、
永泰公主(えいたいこうしゅ)墓と比べて規模は小さい。
墓内より2個の墓誌が発見されている。また、小龕内より三彩俑(さんさいよう)、
陶磁器など600余点が出土した。1971年7月~1972年2月に発掘調査が実施されています。
永泰公主墓(李仙蕙(りせんけい)墓)の壁画
上の写真は永泰公主墓の壁画
壁画に描かれた女性の持つ扇子や払子(ほつす)などを持つ姿と前後に奥行きを示す
人物の配置は高松塚古墳壁画と共通するものとして注目されています。
半臂(はんぴ)と呼ばれる衣服を纏っています。
高松塚古墳壁画に関連して作成したブログ:
便利堂創業130周年記念「至宝をうつす」見学記 in 京都文化博物館 on 2018-1-24 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
永泰公主(685-701)は唐の中宗の7番目の娘で、高宗と則天武后の孫娘にあたります。
彼女は則天武后の実家の人(武承嗣(武則天の甥)の子の魏王武延基)と結婚しましたが、
701年、兄の邵王李重潤や夫の武延基とともに武則天の寵臣であった張易之・張昌宗兄弟
を排除する謀議を行ったとして、武則天により自殺を命じられた。17歳の若さであった。
705年、中宗が即位すると、永泰公主に追封された。706年、乾陵に陪葬された。
この墓は乾陵の南東に位置し、1960年8月から1962年4月まで発掘調査されました。