NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」の後半登場の花山伊佐次(実在人物は花森安治)が
神戸で生まれた人物ということで花森安治さんについて調べた。
まずWikipediaより略歴を調べました。(若干 筆者が追記)
花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は日本の
編集者、グラフィックデザイナー、ジャーナリスト、コピーライター。
生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者として、その名を知られる。
明治44年(1911)、神戸市須磨区平田町に生まれる。神戸市立雲中小学校(注1)
の同級に田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校(現 長田高校)から
旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、校友会雑誌(第20号:1932年12月が
花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。
昭和8年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、ここでも学生新聞の編集
に携わる。帝国大学新聞は市販されており編集員には1年生5円、2年生10円、
3年生15円の給料が出た。
当時の編集部員に扇谷正造や岡倉古志郎、杉浦明平などがいた。
昭和10年(1935)10月18日東京赤坂の日枝神社で山内ももよと結婚式
昭和11年(1936)12月26日に山内ももよ(もも代)と入籍。
入籍から4ヶ月後の昭和12年4月に長女・花森藍生(土井藍生)が生まれた。
昭和12年(1937)に東京帝国大学卒業、佐野繁次郎の面接を受け伊東胡蝶園
(のちのパピリオ[1])宣伝部に入社、広告デザインに携わる。
尚、大学卒業論文のテーマは「衣装の美学的考察」
1930年代末期から手がけた化粧品広告には、既に手書き
文字で顧客に語りかける、その後の『暮しの手帖』を誌面のキーともなる、
個性的なスタイルを確立させている。太平洋戦争に応召するが、疾病により除隊
し、その後は敗戦まで大政翼賛会の外郭団体に籍を置き、国策広告に携わる。
当時の代表的なキャッチコピー「欲しがりません 勝つまでは」は花森が考案
したものと、しばしば言われるがこれは事実ではない。
大政翼賛会と新聞3社による「国民決意標語」の募集に、東京在住の男性が
小学生の娘の名前で応募した作品を花森が採用したものである。
ただし、この点に関して、花森は一切弁明をしなかった。
除隊されたとは言え、戦争の不条理と悲惨さの一端を経験した、彼は終戦後の
昭和21年(1946)、編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に衣装研究所を設立し
雑誌『スタイルブック』を創刊した。そして1948年に、生活雑誌
『美しい暮しの手帖』(後に『暮しの手帖』に改題)を創刊する。
昭和26年(1951)には、暮しの手帖社と改称。『暮しの手帖』は生活者の側に
立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌で、
中立性を守るという立場から、企業広告を一切載せない、という理念の元に
今日まで発行されている。編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、
死の2日前まで第一線で編集に当たった。なお『暮しの手帖』の表紙画は、
創刊号から死の直前に発行された第2世紀52号まで、全て花森の手によるもの
である[2]。暮らしの手帳は徹底的な商品テストも好評で全盛期には100万部
を越える人気雑誌です。
(注1)雲中小学校は神戸市内では明親小学校に次いで2番目に古い学校で、
明治6年(1873)4月の創立です。
花山伊佐次役は唐沢寿明が演じている。
1972年の著書『一銭(正しくは金を略した字)五厘の旗』では「僕らの暮らしを
何よりも第一にする」という強い決意を謳っています。
神戸で生まれた人物ということで花森安治さんについて調べた。
まずWikipediaより略歴を調べました。(若干 筆者が追記)
花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は日本の
編集者、グラフィックデザイナー、ジャーナリスト、コピーライター。
生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者として、その名を知られる。
明治44年(1911)、神戸市須磨区平田町に生まれる。神戸市立雲中小学校(注1)
の同級に田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校(現 長田高校)から
旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、校友会雑誌(第20号:1932年12月が
花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。
昭和8年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、ここでも学生新聞の編集
に携わる。帝国大学新聞は市販されており編集員には1年生5円、2年生10円、
3年生15円の給料が出た。
当時の編集部員に扇谷正造や岡倉古志郎、杉浦明平などがいた。
昭和10年(1935)10月18日東京赤坂の日枝神社で山内ももよと結婚式
昭和11年(1936)12月26日に山内ももよ(もも代)と入籍。
入籍から4ヶ月後の昭和12年4月に長女・花森藍生(土井藍生)が生まれた。
昭和12年(1937)に東京帝国大学卒業、佐野繁次郎の面接を受け伊東胡蝶園
(のちのパピリオ[1])宣伝部に入社、広告デザインに携わる。
尚、大学卒業論文のテーマは「衣装の美学的考察」
1930年代末期から手がけた化粧品広告には、既に手書き
文字で顧客に語りかける、その後の『暮しの手帖』を誌面のキーともなる、
個性的なスタイルを確立させている。太平洋戦争に応召するが、疾病により除隊
し、その後は敗戦まで大政翼賛会の外郭団体に籍を置き、国策広告に携わる。
当時の代表的なキャッチコピー「欲しがりません 勝つまでは」は花森が考案
したものと、しばしば言われるがこれは事実ではない。
大政翼賛会と新聞3社による「国民決意標語」の募集に、東京在住の男性が
小学生の娘の名前で応募した作品を花森が採用したものである。
ただし、この点に関して、花森は一切弁明をしなかった。
除隊されたとは言え、戦争の不条理と悲惨さの一端を経験した、彼は終戦後の
昭和21年(1946)、編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に衣装研究所を設立し
雑誌『スタイルブック』を創刊した。そして1948年に、生活雑誌
『美しい暮しの手帖』(後に『暮しの手帖』に改題)を創刊する。
昭和26年(1951)には、暮しの手帖社と改称。『暮しの手帖』は生活者の側に
立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌で、
中立性を守るという立場から、企業広告を一切載せない、という理念の元に
今日まで発行されている。編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、
死の2日前まで第一線で編集に当たった。なお『暮しの手帖』の表紙画は、
創刊号から死の直前に発行された第2世紀52号まで、全て花森の手によるもの
である[2]。暮らしの手帳は徹底的な商品テストも好評で全盛期には100万部
を越える人気雑誌です。
(注1)雲中小学校は神戸市内では明親小学校に次いで2番目に古い学校で、
明治6年(1873)4月の創立です。
花山伊佐次役は唐沢寿明が演じている。
1972年の著書『一銭(正しくは金を略した字)五厘の旗』では「僕らの暮らしを
何よりも第一にする」という強い決意を謳っています。