本日は舞鶴への訪問記シリーズの第16回で11月18日に訪問したJR西舞鶴駅周辺の光景
について紹介します。
過去の訪問記
第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第4回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第5回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その5 松尾寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第6回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その6 金剛院 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第7回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その7 だるま堂のだるま様 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第8回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その8 生け簀料理 卑弥呼での夕食 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第9回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その9 ホテルベルマーレでの朝食 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第10回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その10 赤レンガパーク駐車場付近の見どころ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第11回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その11 赤レンガパーク - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第12回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その12 海軍ゆかりの港めぐり遊覧船 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第13回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その13 赤れんが博物館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第14回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その14 五老スカイタワー - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第15回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その15 道の駅 舞鶴とれとれセンター - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
事前の情報
舞鶴旅行 予備訪問 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
上の写真はJR西舞鶴駅を正面から撮ったものです。
明治37年(1904)に舞鶴駅として開業した。舞鶴市の合併・市域拡大に伴い、昭和19年
(1944)に西舞鶴駅と改称された。かつては、駅弁が販売されており、その調製元は
「鶴寿軒」だったが、2005年に撤退した。
JRの他に京都丹後鉄道の拠点駅でもある。
上の写真は当日の宿泊先「舞鶴グランドホテル」の建物外観を撮りました。
ホテルの左手前は舞鶴の田辺城(舞鶴城)の「太鼓堂」を再現した時計塔です。説明によれば、「丹後田辺に過ぎたるものは 時の太鼓に野田希一」と江戸時代にの馬子唄で歌われたように、朱子学の大家である野田笛浦(希一)とともに、この太鼓堂はこの地域においてシンボルのような存在だったようです。櫓のようなものは新潟県村上市のJR村上駅前にもありましたが、こちらはそれよりも凝ったつくりになっていますね。ちなみに時計塔として建てられているため、正午と17時には太鼓の音が入った音楽が流れるようです。
上の2枚の写真は当日の夕方、西舞鶴駅のホームに停車中の列車
上の4枚の写真はメンテ等を行う整備場に停留する列車 撮影:2021-11-19の朝
上の写真は西舞鶴駅構内に展示されていた細川幽斎(細川藤孝)に関するパネル展示
天正8年(1580)、織田信長の命により丹後国は細川藤孝・忠興親子の所領となり、
宮津に本城、田辺、峰山などに支城を築いて丹後を修めました。
田辺城(舞鶴城)は天正10年代に完成したといわれています。
田辺城は天守・本丸を囲んで二の丸、三の丸がある輪郭式の平城で、東に伊佐津川、
西に高野川、南は湿地、北は海に接した要害の地に築かれ、敵を防ぎ味方を守りやすい
城でありました。田辺城は江戸時代になると細川氏の国替えに伴い京極氏の治世となり
元和8年(1622)、丹後の地は京極高知の3人の子供に分与され宮津藩(7.8万石)、
田辺藩(3.5万石)、峰山藩(1万石)の3藩が成立しました。
また、寛文8年(1668)京極氏の豊岡への国替えに伴い牧野氏が入国し牧野氏による
治世が長く続きます。
西舞鶴の街並みは田辺城による縄張りとして形成され発展していきました。
細川藤孝(1534-1610)と田辺城に関する詳細は11月19日に訪問した田辺城跡で
書いていきたいと思っています。
パネル展示で気になった内容については下に添付しておきます。
上の3枚の写真は細川藤孝の20歳以降、77歳で死去するまでの略年表
上の写真は慶長5年(1600)7月の田辺城の籠城戦に関する展示パネル
上の写真は細川幽斎の甲冑などの武具に関する展示パネル