五節句の制度は明治6年(1873)に廃止されましたが、今でも季節の変わり目の
諸行事が行われ我々の生活の中の風習として根付いています。
五節句は次の通りです。
1月7日 人日(じんじつ)七草粥
3月3日 上巳(じょうみ)ひな祭り
5月5日 端午(たんご)子供の日、菖蒲の節句
7月7日 七夕(たなばた)星祭り
9月9日 重陽(ちょうよう)菊の節句
本日は各節句について別名や主な行事、由来について記していきます。
節句の元は「節供」と書き、江戸時代はこの5日が公式に法制化された式日
(現在の祝日)でした。また「節会(せちえ)」とも呼ばれていました。
(1)人日(じんじつ)
別名:七草の節句
主な行事と由来:お正月最後のこの日は、七草粥を食べて1年の豊作と無病息災
を願います。中国の古い習俗に由来。
神戸市では灘区の泉隆寺の「若菜摘み」が有名で毎年「七草粥」
が振舞う行事が毎年行われています。
上の写真は摂津名所図会からコピーしたもので平安期(寛平期(889-897))から
七草を朝廷に献上していたとの説明書きがある。
同じく摂津名所図会巻之八の若菜調貢には下記のような説明書きがある。
「若菜調貢(わかなのみつぎ)菟原郡中尾村の人、生田の浦より若菜を採って
禁裏に献る。七種のその一種なり。これを生田の若菜と呼ぶ。字多天皇の
御時より始まるとかや。中頃、源平兵乱よりこの式例中絶しけり。
文明年中、本願寺蓮如上人この辺経回の時、この旧例を申し上げ、再興ありて、
今も臘月(しはす)二十五日には、例年生田川の東の浜より一町程沖の方、
海底に生ふる若菜を、中尾の村民これを取って、同村の道場泉隆寺より、
京師西六条東中筋花屋町仏照寺へ貽(おく)らる。またこの寺より
鏡餅を添へて、本殿寺御門跡へ進上す。またここより天子へ献らるる事にや。
『堀川百首』 旅人の道さまたげlこ摘むものは生田の小野の若菜なりけり
師輔
『夫木』 問はねどもたがためとてか津の国の生田の小野にわかな摘むらん
経季
『公事根源』云ふ、
内蔵寮ならかに内膳司より、正月上の子日、若菜を奉るなり。寛平年中より始まれる事にや。延喜十一年正月七日、後院より七種の若菜を供す。また(村上天皇)天暦四年二月二十九日、女御安子(安子、藤原氏師輔公の女なり)の朝臣、若菜を奉るよし李部王(りほうおう)の記に見えたり。若菜を十二種供する事あり。そのくさぐさは、若な・はこペら・苣(ちさ)・せり・蕨(わらび)・なづな・あふひ・芝(しば)・蓬(よもぎ)・水蓼(たで)・水雲(イに薊)・松とみえたり。この松の字の事、白川院の御時、師遠に御尋ね有りしかば、若松と書きてこほねと読むなり、もしこの事にて侍るかと申しき。松をそへて奉る、さてはひが事なりと上皇仰せられ侍りき。尋常は、若菜は七種の物なり。薺・はこべら・芹・菁(あをな)・御形(ごぎょう)・すずしろ・仏の座などなり。正月七日に七種の菜羮(さいこう)を食すれば、その人万病なし、また邪気をのぞく術侍ると見えたり云々。
『源氏』若菜巻、
小松ばらすゑのよはひにひかれてや野べのわかなもとしをつむべき
按ずるに、生田の若菜は磯菜なるペし。『八重垣』に日く、磯辺の若菜なり。十二種の中に水雲(もずく)あり。海藻の類も磯菜ならんか。
『新古今』 けふとてや磯菜つむらんいせ島やいちしの浦の海士の乙女子 俊成
(2)上巳(じょうみ)
じょうしという読み方でも正しい。
別名:桃の節句、重三、草餅の節句
主な行事と由来:起源は古来中国の上巳節。上巳とは、3月最初の「巳の日」
川で身を清め、不浄を祓った後に宴を催す習慣がありました
平安時代日本に伝わり、宮中の「人形遊び」と結びつき
「流し雛」へと発展。江戸時代以降はひな祭りとして庶民にも
定着し女子の節句となった。
上の写真は某所の雛飾り
Hinamatsuri(March3)
Dolls wearing traditional Kimono are displayed to pray for the happiness of girls.
These dolls are called Hinaningyo,and the custom is also known as momo no sekku.
In some areas,the old custom of loading one's troubles onto a paper doll and floating
them off down the river is still practised.
This is called Nagashi-bina.
(3)端午(たんご)
別名:菖蒲の節句、重五、端陽
主な行事と由来:
広辞苑第4版で端午の節句を調べてみますと、以下のように書かれていました。
「端は初めの意。もと中国で月の初めの午の日、のち午は五と音通などにより
5月5日をいう、古来邪気を払うため菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒に挿し
粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べる。
菖蒲と尚武の音通もあって近世以降は男子の節句とされ甲冑や武者人形などを
飾りさらに鯉幟(こいのぼり)を立てて男子の成長を祝う。
あやめの節句、重五(ちょうご)、端陽などの別名もある。」
上の写真は鯉のぼりのイラスト
(4)七夕(たなばた)
別名:笹の節句
主な行事と由来:
七夕は中国の牽牛(けんぎゅう)星と織姫星を祀る年中行事に由来しています。
この2つの星が年に1度7月7日に天の川をはさんで会うとされています。
七夕では笹の葉ににいろいろな願いをを書いて下げるとその願いが叶えられると
信仰されています。
上の写真は某所での七夕飾りです。
(5)重陽(ちょうよう)
別名:菊の節句、重九
主な行事と由来:
中国では奇数を陽の数とし、陽の極である9が重なる9月9日は大変目出度い日と
され、菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風習が
ありました。日本には平安時代の初めに伝わり、宮中では観菊の宴が催されました
菊の節句、菊の宴とも言われています。
上の写真は某所での重陽の説明
五節句の日付をみると人日(じんじつ)以外は月と日が同じ奇数の数値と
なっています。これは五節句の発祥の地、中国で奇数が「陽数」と言われ
これが月日で重なると縁起が良く目出度いとの考えに基づいています。
諸行事が行われ我々の生活の中の風習として根付いています。
五節句は次の通りです。
1月7日 人日(じんじつ)七草粥
3月3日 上巳(じょうみ)ひな祭り
5月5日 端午(たんご)子供の日、菖蒲の節句
7月7日 七夕(たなばた)星祭り
9月9日 重陽(ちょうよう)菊の節句
本日は各節句について別名や主な行事、由来について記していきます。
節句の元は「節供」と書き、江戸時代はこの5日が公式に法制化された式日
(現在の祝日)でした。また「節会(せちえ)」とも呼ばれていました。
(1)人日(じんじつ)
別名:七草の節句
主な行事と由来:お正月最後のこの日は、七草粥を食べて1年の豊作と無病息災
を願います。中国の古い習俗に由来。
神戸市では灘区の泉隆寺の「若菜摘み」が有名で毎年「七草粥」
が振舞う行事が毎年行われています。
上の写真は摂津名所図会からコピーしたもので平安期(寛平期(889-897))から
七草を朝廷に献上していたとの説明書きがある。
同じく摂津名所図会巻之八の若菜調貢には下記のような説明書きがある。
「若菜調貢(わかなのみつぎ)菟原郡中尾村の人、生田の浦より若菜を採って
禁裏に献る。七種のその一種なり。これを生田の若菜と呼ぶ。字多天皇の
御時より始まるとかや。中頃、源平兵乱よりこの式例中絶しけり。
文明年中、本願寺蓮如上人この辺経回の時、この旧例を申し上げ、再興ありて、
今も臘月(しはす)二十五日には、例年生田川の東の浜より一町程沖の方、
海底に生ふる若菜を、中尾の村民これを取って、同村の道場泉隆寺より、
京師西六条東中筋花屋町仏照寺へ貽(おく)らる。またこの寺より
鏡餅を添へて、本殿寺御門跡へ進上す。またここより天子へ献らるる事にや。
『堀川百首』 旅人の道さまたげlこ摘むものは生田の小野の若菜なりけり
師輔
『夫木』 問はねどもたがためとてか津の国の生田の小野にわかな摘むらん
経季
『公事根源』云ふ、
内蔵寮ならかに内膳司より、正月上の子日、若菜を奉るなり。寛平年中より始まれる事にや。延喜十一年正月七日、後院より七種の若菜を供す。また(村上天皇)天暦四年二月二十九日、女御安子(安子、藤原氏師輔公の女なり)の朝臣、若菜を奉るよし李部王(りほうおう)の記に見えたり。若菜を十二種供する事あり。そのくさぐさは、若な・はこペら・苣(ちさ)・せり・蕨(わらび)・なづな・あふひ・芝(しば)・蓬(よもぎ)・水蓼(たで)・水雲(イに薊)・松とみえたり。この松の字の事、白川院の御時、師遠に御尋ね有りしかば、若松と書きてこほねと読むなり、もしこの事にて侍るかと申しき。松をそへて奉る、さてはひが事なりと上皇仰せられ侍りき。尋常は、若菜は七種の物なり。薺・はこべら・芹・菁(あをな)・御形(ごぎょう)・すずしろ・仏の座などなり。正月七日に七種の菜羮(さいこう)を食すれば、その人万病なし、また邪気をのぞく術侍ると見えたり云々。
『源氏』若菜巻、
小松ばらすゑのよはひにひかれてや野べのわかなもとしをつむべき
按ずるに、生田の若菜は磯菜なるペし。『八重垣』に日く、磯辺の若菜なり。十二種の中に水雲(もずく)あり。海藻の類も磯菜ならんか。
『新古今』 けふとてや磯菜つむらんいせ島やいちしの浦の海士の乙女子 俊成
(2)上巳(じょうみ)
じょうしという読み方でも正しい。
別名:桃の節句、重三、草餅の節句
主な行事と由来:起源は古来中国の上巳節。上巳とは、3月最初の「巳の日」
川で身を清め、不浄を祓った後に宴を催す習慣がありました
平安時代日本に伝わり、宮中の「人形遊び」と結びつき
「流し雛」へと発展。江戸時代以降はひな祭りとして庶民にも
定着し女子の節句となった。
上の写真は某所の雛飾り
Hinamatsuri(March3)
Dolls wearing traditional Kimono are displayed to pray for the happiness of girls.
These dolls are called Hinaningyo,and the custom is also known as momo no sekku.
In some areas,the old custom of loading one's troubles onto a paper doll and floating
them off down the river is still practised.
This is called Nagashi-bina.
(3)端午(たんご)
別名:菖蒲の節句、重五、端陽
主な行事と由来:
広辞苑第4版で端午の節句を調べてみますと、以下のように書かれていました。
「端は初めの意。もと中国で月の初めの午の日、のち午は五と音通などにより
5月5日をいう、古来邪気を払うため菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒に挿し
粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べる。
菖蒲と尚武の音通もあって近世以降は男子の節句とされ甲冑や武者人形などを
飾りさらに鯉幟(こいのぼり)を立てて男子の成長を祝う。
あやめの節句、重五(ちょうご)、端陽などの別名もある。」
上の写真は鯉のぼりのイラスト
(4)七夕(たなばた)
別名:笹の節句
主な行事と由来:
七夕は中国の牽牛(けんぎゅう)星と織姫星を祀る年中行事に由来しています。
この2つの星が年に1度7月7日に天の川をはさんで会うとされています。
七夕では笹の葉ににいろいろな願いをを書いて下げるとその願いが叶えられると
信仰されています。
上の写真は某所での七夕飾りです。
(5)重陽(ちょうよう)
別名:菊の節句、重九
主な行事と由来:
中国では奇数を陽の数とし、陽の極である9が重なる9月9日は大変目出度い日と
され、菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風習が
ありました。日本には平安時代の初めに伝わり、宮中では観菊の宴が催されました
菊の節句、菊の宴とも言われています。
上の写真は某所での重陽の説明
五節句の日付をみると人日(じんじつ)以外は月と日が同じ奇数の数値と
なっています。これは五節句の発祥の地、中国で奇数が「陽数」と言われ
これが月日で重なると縁起が良く目出度いとの考えに基づいています。