2023年度前期のNHK連続テレビ小説が高知県佐川町出身の植物学者、牧野富太郎博士を
モデルにした「らんまん」に決まっています。
脚本は長田育恵さん、 牧野富太郎役には神木隆之介さん妻のスエ子役には浜辺美波さんに決まっています。
朝ドラに関係の詳細はNHKの下記サイトを参照してください。
《2023年度 前期》連続テレビ小説 制作決定!作・長田育恵 / 主演・神木隆之介 連続テレビ小説 らんまん |NHK_PR|NHKオンライン
その関係で先日、兵庫県立図書館から表題の本を借りましたので紹介します。
牧野富太郎博士の研究所が大正7年(1918)から昭和16年(1941)まで神戸の会下山公園の近くにあった。
この植物研究所は南蛮美術収集家として著名な池長孟が牧野富太郎のために提供したものである。
そういう訳で神戸とも所縁の深い人物である。
神戸市兵庫区の会下山の牧野富太郎博士の植物研究所跡(2011年3月14日訪問)については
過去にブログを作成していますのでリンクしておきます。 牧野富太郎 植物研究所跡 in 神戸市兵庫区会下山公園 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
前置きが長くなりました。早速、本の紹介に移っていきます。
上の写真は本の表紙です。ニコニコ顔で植物採集をする牧野富太郎博士と植物研究所跡碑の写真が掲載されています。
本の構成は以下のようになっています。
第1章 神戸との出合い
第2章 植物研究一途な青年時代
第3章 牧野の援助者・池長孟
第4章 池長問題と揺れる標本
第5章 神戸で牧野と深く関わった人々
第6章 標本は牧野のもとに
第7章 老いを知らない牧野の活動
第8章 牧野富太郎の業績と今日的意義
本の口絵には姫路市大塩の「のじ菊の里公園」のノジギクについて紹介されていますノジギクは牧野富太郎博士が明治17年(1884)高知県で発見し命名しました
ノジギクは瀬戸内海沿岸や九州でも見られますが、兵庫県は本州で見られる北・東の端となります。
上の写真は牧野富太郎と池長孟(昭和16年に撮影 牧野79歳、池長50歳)
出典:白岩卓巳「牧野富太郎と神戸」(2008)口絵
上の写真は植物研究所の2階の植物標本(大正10年(1921)撮影)
これらの標本は蔵書と共に昭和16年(1941)に牧野富太郎のもとに返却されています。
現在、標本は首都大学東京牧野標本館に、研究所の図書等は高知県立牧野植物園に保管されています。
出典:白岩卓巳「牧野富太郎と神戸」(2008)口絵 書籍「牧野富太郎と神戸」では第3章で牧野を援助した池長孟(1891-1955)について 詳しく紹介されています。上の写真は南蛮美術のコレクターで私立池長美術館を開設した池長孟氏(1891-1955)
59歳当時 昭和25年(1950)11月撮影
出典:池長孟追憶志 昭和30年(1955) 以下はWikipediaに記載の池長孟の経歴と家族
神戸市出生。京都帝国大学卒業後、池長通の養子となり池長姓に改姓。初め戯曲を書いた。
育英商業学校の校長を務める傍ら南蛮美術の収集を行い、1940年(昭和15年)、池長美術館を開館したが、戦局の悪化から同美術館は1944年(昭和19年)に閉鎖された。戦後の1951年(昭和26年)、戦災を免れた美術館の建物とコレクションを神戸市に寄贈した。これを元に開館した市立神戸美術館は後に統合され神戸市立博物館の中核となった。小川安一郎設計のアールデコ建築は、神戸市文書館として使用されている。
生涯に3回結婚。最初の妻・正枝は荒木村重の末裔と言われる家系の出身で孟との間に3子を儲けたが、次男出産時に体調を崩し死別。2番目の妻・富子は淀川長治の姉。結婚2年目に富子が家出して離婚。3番目の妻・とし子との間に2子。
長男は摂南大学教授だった倫理学者・池長澄 (1920 - 2001) 。三男にカトリック大阪大司教区第7代大司教を務めた池長潤。
本日も中途半端な記述となってしまいましたが時間の関係でこの辺で区切ります。 最後に上記2つの本などから牧野富太郎博士の年譜を纏めて筆を置きます。 文久2年(1862)4月24日、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれた。幼名は成太郎。幼い頃、両親をなくし祖母に育てられた。 幼少のころから植物に興味を示していた。明治5年(1872)10歳、寺小屋で習字を学ぶ
明治6年(1873)11歳、明教館(めいこうかん)で西洋の学問に触れる 明治7年(1874)12歳、佐川小学校に入学 明治9年(1876)14歳、佐川小学校を自主退学 地元の学校の教師などから英語を学び、植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、気ままな生活を送っていた。欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。 明治12年(1879)17歳、高知市に出て五松学舎に学ぶ。コレラを罹患し帰郷 明治13年(1880)18歳、永沼小一郎(地元の旧制中学教師)と知り合う 明治14年(1881)19歳、第2回内国博覧会の見学のため東京へ。 書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まったのも東京行きの理由である。 田中芳男などと知り合う 明治17年(1884)22歳、2回目の上京。東京大学植物学教室に出入りする。理科大学で谷田部良吉、松村任三と知り合う 明治20年(1887)25歳、「植物学雑誌」の創刊に関わる。祖母の浪子が病死。神戸の裏山、布引の滝周辺で植物採集する。 明治21年(1888)26歳、壽衛(すえ)と暮らし始める。 「日本植物志図篇」刊行開始。今で言う植物図鑑のはしりである。 明治22年(1889)27歳、日本で初めて新種「ヤマトグサ」に学名をつける。 『植物学雑誌』に発表 明治23年(1890)28歳、水草のムジナモ発見。谷田部教授に教室への出入りを禁止される 自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。 明治24年(1891)29歳、実家の整理のために佐川へ帰る 牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。 明治26年(1893)31歳、長女・園子が急死 帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。 その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。
ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、
参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり
厚遇はされず、さらに子供が次々に生まれ経済的にも苦しかった。 明治33年(1900)38歳、「大日本植物志」刊行開始 明治34年(1901)39歳 コヤスノキの記載をする 明治40年(1907)45歳 飯沼慾斉原「増訂草木図説」第1巻を出版する 明治42年(1909)47歳、横浜植物会を立ち上げ、観察会など指導する 明治43年(1910)48歳、大学の助手を休職になる。 明治44年(1911)49歳、東京植物同好会を作る 明治45年(1912)50歳、東京帝国大学理科大学講師として復帰(昭和14年(1939)まで勤務) 大正5年(1916)54歳、貧乏で絶体絶命になりそれが新聞記事に掲載。 神戸の南蛮美術の収集家として著名な池長孟(はじめ)が援助を申し出る
津村順天堂(現ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊 大正6年(1917)「植物研究雑誌」に「余が年少時代に抱懐した意見」を発表。池長植物研究所の開館準備。 大正7年(1918)56歳、神戸牧野富太郎植物研究所が完成(昭和16年まで続く) 大正10年(1921)59歳 高砂市石宝殿、新宮などでノジギク、コヤスノキの自生地に出かける。
大正15年(1926)64歳、現在の東京都練馬区東大泉に自宅を建てる
昭和2年(1927)65歳、東京大学から理学博士の学位を授与される。 昭和3年(1928)66歳、妻の壽衛(すえ)が死去。 新種の笹に亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。 昭和9年(1934)72歳、「牧野植物学全集」刊行開始 昭和12年(1937)75歳、「牧野植物学全集」によって朝日文化賞を受賞 昭和14年(1939)77歳、東京帝国大学理科大学講師を辞任 昭和15年(1940)78歳、「牧野日本植物図鑑」刊行 昭和16年(1941)79歳、満州へサクラの調査に行く。池長孟より標本が返される。 安達氏より標品館が寄付される 昭和20年(1945)83歳、山梨県北巨摩郡保坂村へ疎開 昭和23年(1948)86歳、天皇陛下へご進講 昭和24年(1949)87歳、病気で危篤となるが、奇跡的に復活する 昭和26年(1951)89歳、第1回文化功労者に選ばれる。 文部省に「牧野富太郎博士標本保存委員会」ができる 昭和29年(1954)92歳、風邪をこじらせ、床に臥せることが多くなる 昭和32年(1957)94歳、家族に見守られて永眠 墓所は谷中霊園 昭和33年(1958) 高知県立牧野植物園が開園、東京都立大学牧野標本館が開館 東京都練馬区立牧野記念庭園が開園 著者の白岩卓巳(昭和9年(1934)~)氏について神戸市立小学校の教諭を経て神戸市立住吉・港島小学校校長を歴任。親和女子大学講師。自身も植物学の研究者として学会活動もされています。シダ植物の研究で著作多数。