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国史跡 三木城本丸跡(上の丸公園)への訪問記 on 2022-9-3

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三木城は上の丸台地に築かれた丘城で、本丸・二の丸を中心部とし、新城、鷹尾山城、

宮の上要害によって構成されます。

2022年9月3日、国史跡 三木城本丸跡(上の丸公園)を訪問し写真を撮ってきたので

紹介します。以前に撮った写真も含めブログ記事を書いていきます。

三木城全体図(想像図)

上の丸公園の説明板から三木城想像図を添付しておきます。(下の写真)

上の写真に本丸・二の丸の他に、新城、鷹尾山城、宮の上要害が描かれています。

上の写真も三木城の全体図 北が下になっているので注意が必要

 

三木城本丸跡の地図と各施設の紹介

上の写真は本丸跡と二の丸跡の地図で本丸の中の赤字の数字の施設を紹介していきます。

 

上の写真は現地説明板で示された「本丸跡と二の丸跡」の現況

保育所は現在、解体され更地になっています。

①伝天守台

上の2枚の写真は別所長治公及び一族の辞世の句を刻んだ石碑

別所長治は次の辞世の句を詠んでいます。

「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」

②かんかん井戸

上の2枚の写真はかんかん井戸の遠景と現地説明板

 

③四百年祭記念之碑

上の写真は400年祭記念之碑です。下記のように書かれています。

「四百年祭記念之碑
村上天皇を祖とし東播八郡を領した三木城主別所長治公が、織田信長の命により中国進攻に当たった
羽柴秀吉の大軍を迎えた1年10カ月の長きにわたり三木城に拠り応戦。
将兵とともに果敢に戦ったが、天正8年1月17日ついに諸人の生命に代わって、一族とともに自刃し
三木城を開城、再びこの地に平和をもたらしたのである。時に長治公は若干23歳であった。
想うに、当時の中央勢力に対し、敢然と戦い播州武士の面目を示した勇武と、これを最後まで支援
した一族家臣の忠誠心は、他に類を見ないところである。
ここに別所長治公四百年祭にあたり、思いも新たにしてその遺徳を顕彰し、併せて三木合戦において
散華した彼我物故者諸霊位の御冥福を祈って建碑の辞とする。


  昭和56年5月3日
 別所長治公四百年祭実行委員会
 名誉会長・三木市長 大原義治   会長 鈴木信次」

撰文は 進藤白楊氏

裏面には別所長治公四百年祭実行委員会のメンバーの氏名さらにこの事業に援助された方(104名)の氏名が刻まれた。

④別所長治公の石像

上の2枚の写真は別所長治公の石像と現地説明板

⑤稲荷神社

上の写真は上の丸稲荷神社。撮影:2010年11月4日

⑥金物資料館







上の3枚の写真は室町時代の後半、中国大陸から伝わった大鋸(おが)の展示と説明板。
大鋸は丸太を縦に切る道具でこれにより角材を得ることが可能となりました。
展示の大鋸は石峯寺(しゃくぶじ)から発見されたものの複製品だそうです。
おが屑の語源になったとの説明に納得。
日本ではこの大鋸を改良して上の写真のような大鋸が開発使用されていきます。

撮影:2018年6月13日

上の写真は金物資料館の外観 撮影:2010年11月4日

詳細は下記Gooブログを参照してください。

 三木市立 金物資料館訪問記 on 2010-11-4 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

番号を付けていませんが本丸跡の中の施設をいくつか写真紹介しておきます。

忠魂碑

小祠と慰霊の石造品

 

 

旧上の丸保育所跡

 

 

三木城のイメージ

 

三木城跡及び付城跡・土塁 国史跡指定記念シンポジウム 「三木合戦を知る」参加録 on 2013-12-7_b0118987_07353624.jpg

上の写真は三木城のイメージのわかるものとして天守閣のある八幡神社に掲げられて額の写真

撮影:2013-5-22

三木城跡及び付城跡・土塁 国史跡指定記念シンポジウム 「三木合戦を知る」参加録 on 2013-12-7_b0118987_07354904.jpg

上の写真は三木合戦を絵で説明したもの(天守閣がかってあった上の丸)に掲示。
撮影:2013-5-22

 

三木合戦

三木合戦について簡単に記載しておきます。

三木合戦は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)
にかけて行われた播州三木城をめぐる織田氏と別所氏の攻防戦である。
足かけ2年弱にのぼり5代目当主の別所長治以下約7,500人の将兵が三木城に
籠城して織田方と戦いました。またその関連の一連の戦いを指す。

三木合戦の経過は次の3段階に分かれます

 第一段階 

別所長治、梶原景秀、明石則実の離反 天正6年(1578)3月
・上月城落城 天正6年(1578)7月5日
        ・織田信忠軍の活動 天正6年(1578)5月初旬 織田信忠、信雄、瀧川一益、明智光秀らが播磨着陣
         から天正6年(1578)8月秀吉が本陣を書写山から平井山に移す

   第二段階 
・荒木村重が織田方を離反 天正6年(1578)10月中旬
          黒田官兵衛は織田方に付いていた主君・小寺政職や、摂津の荒木村重が離反したため村重の説得に赴くが、有岡城に幽閉されてしまう。
            帰らぬ官兵衛を信長は謀反人と疑い、激怒する。
        ・赤松則房 毛利勢の置塩城攻撃に対して切り崩し 天正7年(1579)1月
        ・織田信忠出陣と秀吉の丹生山制圧(花隈→淡河→三木の兵糧補給ルートが断たれる)天正7年(1579)5月
        ・毛利方、魚住の拠点形成(天正7年(1579)6月)、平田・大村合戦天正7年(1579)9月9日、10日


   第三段階 
・宇喜多直家が毛利を離反 天正7年(1579)10月初 毛利側 摂津・播磨への支援困難になる
          この頃東伯耆の南条氏も毛利を離反
        ・有岡城(伊丹)開城 6百数十名殺される 天正7年(1579)11月
          黒田官兵衛は有岡城開城の際、家臣に救出される。一年間の幽閉生活で膝が曲がり、髪は抜け落ちたが、謀反人の汚名は消えた。
          以後、異型の軍師として秀吉に仕えていく。有馬温泉の湯治で静養。
        ・三木城落城 天正8年(1580)1月17日
          1月8日 魚住城落城 1月10日 志方城と御着城が落城 1月15日竹田城が落城
        ・播磨平定 秀吉、英賀(あが)城を落とす 天正8年(1580)4月24日
              秀吉、宇野氏の長水(ちょうずい)城を落とす 5月10日

2015年頃に三木合戦図の説明板がありました。判り易いのでリンクしておきます。

 三木城跡公園の三木合戦図 on 2015-4-29 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

また、三木合戦の絵解き(毎年4月17日に法界寺で開催)についてもリンクしておきます。
 三木合戦 絵解き in  兵庫県立考古博物館 on 2020-11-15  - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

三木合戦 羽柴秀吉 平井山本陣跡 on 2013-4-21_b0118987_9305685.jpg


上の図は三木市観光協会から刊行の「探訪 三木合戦」のPage7からのコピーで
三木城を包囲した羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍の武将配置図です。

 

三木城跡及び付城跡・土塁 国史跡指定記念ウォーキングでの平井本陣での評定劇 on 2013-12-7

三木城跡及び付城跡・土塁 国史跡指定記念ウォーキングでの平井本陣での評定劇

動画の説明

2013年12月7日(土)、三木城跡及び付城跡・土塁 国史跡指定記念シンポジウムの関連行事として 三木城跡及び付城跡・土塁 国史跡指定記念ウォーキングが同日の午前中にありました。 三木合戦における羽柴秀吉の平井本陣と竹中半兵衛の墓がウォーキングのメインの訪問先でした。 平井山ノ上付城跡(秀吉本陣跡)において三木市の甲冑保存会の皆様による三木合戦における三木城攻略の評定劇が披露されていました。 黒田官兵衛及び竹中半兵衛の二兵衛が羽柴秀吉に進言し竹中半兵衛が主張した兵糧攻めが採用される劇です。268名のウォーキング参加者が熱心に熱演を観て感動していました。

三木城本丸跡から観た三木市街地

三木城本丸跡の天守台から観た三木市街地の写真を添付しておきます。

三木城本丸跡の発掘調査

最後に三木城本丸跡の発掘調査の状況を記載して筆を置きます。

 平成2年度(1990) 20㎡ 瓦溜、焼土、石列(礎石)、柱穴、瓦、備前焼大甕など

 平成15年度(2003)120㎡ 礎石、堀、柱穴、溝、土坑、瓦、土師器皿、など

 平成18年度(2006)15㎡ 堀、柱穴、瓦、土師器皿、丹波焼、備前焼、動物遺存体、果実種子

 平成19年度(2007)65㎡ 堀の南肩、柱穴、礎石、瓦、土師器皿、備前焼

 


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