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しゅう翼団団長品川清兵衛と彦根藩竹原七郎平の死

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しゅう翼団団長品川清兵衛と彦根藩竹原七郎平の死

 

 
慶応2年(1866)5月28日、幕府は長州藩へ宣戦布告。
小瀬川を隔てて大竹側は幕府軍対岸に長州軍が相対した。
慶応二年(1866)6月14日の朝その日の小瀬川は霧が深く、
第二次征長軍芸州口先鋒の彦根藩木俣隊使番竹原七郎平は、
従者二名と共に先陣をきって小瀬川に渡ろうとしましたが、
長州軍(しゅう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れました。
異郷に死んだ三士の遺骨は、長州の品川清兵衛によって、
その勇を讃える碑文と共に安禅寺に手厚く葬られました。
墓所は大瀧山安禅寺(曹洞宗)境内(和木町)にあります。


封境之地

和木町は山口県の最東端に位置しており小瀬川をはさみ、
数々のドラマが繰り返された。
第2次長州征伐(長州側からは四境の役)慶応2年(1866)
    注)四境=芸州口、大島口、石州口、小倉口
6月7日大島口幕府軍の軍艦が周防大島を砲撃し開戦となった
6月14日に芸州口、6月16日に石州口6月17日に小倉口で
戦いが始まりました。
芸州口の戦いで長州軍は彦根藩及び高田藩に対して人数の上では
劣勢であったが、慶応元年(1865)長崎のグラバー氏よりミニエー
銃4,100丁、ゲーベル銃3,000丁を購入し参戦した。
これが四境の役で幕府を退けた最大の要因となった。
芸州口での長州軍は岩国、柳井、玖珂の5代官所で養成された
2,000人の民兵で彦根・高田の幕府軍と約2ヶ月にわたる戦争で
幕府軍に小瀬川を渡らせることなく、将軍家茂の死も重なり幕府は
長州と和睦をせざるを得ない状況となった。
この戦争は明治維新という新しい歴史を開いた回天の戦いであった。

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