2023年4月19日、姫路市林田町を散策してきました。
姫路市林田町散策記シリーズの第4回として河野鉄兜の碑をお送りします。
シリ-ズ過去の訪問記
第1回 姫路市林田町散策記 on 2023-4-19 その1 林田陣屋跡(現聖ケ岡公園) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第2回 姫路市林田町散策記 on 2023-4-19 その2 林谷の医王山浄院薬師寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第3回 姫路市林田町散策記 on 2023-4-19 その3 塩阜神水(しおおかしんすい) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
上の2枚の写真は林田中学校の正門の右手脇に立つ河野鉄兜の碑。「河野鉄兜先生碑」と刻まれている。吉野の懐古漢詩で知られる河野鉄兜は、藩校敬業館の教授であった。もう少し詳しい河野鉄兜先生の説明は下記のとおりです。
河野鉄兜(こうのてつとう) 生年:1825年 没年:1867年(43歳)河野鉄兜(こうのてつとう)は文政8年(1825)河野孝章(通称:三省)の三男として揖東郡網干余子浜垣内に生まれる。三省は 医者で 男五人、女四人の子供がいたが 長男は 20歳で 亡くなり 次男が後を継いだ。 三男が 絢夫 すなわち 鉄兜。 四男 権之助は 早世し 五男が河野東馬で 通称 通鶚、号を 香邨(こうそん)といった。河野鉄兜の名は維羆 字は夢吉、通称俊蔵、本姓は越智氏。鉄兜という号は、家に伝わる古い鉄兜にちなんでつけたという。また秀野などとも号した。16歳の時、吉田鶴仙に学び、また仁寿山校にも入学した。詩は京都の梁川星巌に学んだ。一時医師を開業(弘化2年(1845))したが、嘉永4年(1851)林田藩主建部政和に招かれ、藩校敬業館の教授を勤めた。安政2年(1855)に林田に移住し、秀野草堂で門下生を指導し各地の名家の来訪を受けた。鉄兜は詩に優れ、吉野の詠は芳山三絶として名高い。代表作に「吉野懐古」があり、詩吟愛好家でこの詩を知らない人はない。鉄兜は大政奉還の来る日を 論じていたが目前の慶応3年(1867)に永眠した。行年は43歳。
上の写真は河野鉄兜先生碑の左側面で皇紀2600年の昭和15年(1940)にこの碑が建立されたことが判ります。また碑建立の発起人には吟道賀堂流 西播詩吟会会長の大師範 段賀聖の名前が刻まれています。多分、現在でも段医院を経営されている段一族の方だと思います。
上の写真は河野鉄兜先生(1825-1867)の碑の背面
書かれている内容は下記のとおり(カタカナ表記はひらかな表記に直した)一部読めない部分有り原文を違訳しています。河野鉄兜名は羆通称絢夫文政八年播磨網干余子濱に生る幼にして俊秀人に擢て長じて博覧強記凡そ和漢の学究心はさるなう詩心其の最も嗜む所にして芳野懐古の七絶は人口に膾受する所なり 夙に尊王の大義を唱へ志國事にあり 林田藩に招聘され藩校敬業館教授となり慶応三年病没す 年四十三昭和三年正五位を贈らる
姫路市林田町散策記シリーズの第4回として河野鉄兜の碑をお送りします。
シリ-ズ過去の訪問記
第1回 姫路市林田町散策記 on 2023-4-19 その1 林田陣屋跡(現聖ケ岡公園) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第2回 姫路市林田町散策記 on 2023-4-19 その2 林谷の医王山浄院薬師寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第3回 姫路市林田町散策記 on 2023-4-19 その3 塩阜神水(しおおかしんすい) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
上の2枚の写真は林田中学校の正門の右手脇に立つ河野鉄兜の碑。「河野鉄兜先生碑」と刻まれている。吉野の懐古漢詩で知られる河野鉄兜は、藩校敬業館の教授であった。もう少し詳しい河野鉄兜先生の説明は下記のとおりです。
河野鉄兜(こうのてつとう) 生年:1825年 没年:1867年(43歳)河野鉄兜(こうのてつとう)は文政8年(1825)河野孝章(通称:三省)の三男として揖東郡網干余子浜垣内に生まれる。三省は 医者で 男五人、女四人の子供がいたが 長男は 20歳で 亡くなり 次男が後を継いだ。 三男が 絢夫 すなわち 鉄兜。 四男 権之助は 早世し 五男が河野東馬で 通称 通鶚、号を 香邨(こうそん)といった。河野鉄兜の名は維羆 字は夢吉、通称俊蔵、本姓は越智氏。鉄兜という号は、家に伝わる古い鉄兜にちなんでつけたという。また秀野などとも号した。16歳の時、吉田鶴仙に学び、また仁寿山校にも入学した。詩は京都の梁川星巌に学んだ。一時医師を開業(弘化2年(1845))したが、嘉永4年(1851)林田藩主建部政和に招かれ、藩校敬業館の教授を勤めた。安政2年(1855)に林田に移住し、秀野草堂で門下生を指導し各地の名家の来訪を受けた。鉄兜は詩に優れ、吉野の詠は芳山三絶として名高い。代表作に「吉野懐古」があり、詩吟愛好家でこの詩を知らない人はない。鉄兜は大政奉還の来る日を 論じていたが目前の慶応3年(1867)に永眠した。行年は43歳。
上の写真は河野鉄兜先生碑の左側面で皇紀2600年の昭和15年(1940)にこの碑が建立されたことが判ります。また碑建立の発起人には吟道賀堂流 西播詩吟会会長の大師範 段賀聖の名前が刻まれています。多分、現在でも段医院を経営されている段一族の方だと思います。
上の写真は河野鉄兜先生(1825-1867)の碑の背面
書かれている内容は下記のとおり(カタカナ表記はひらかな表記に直した)一部読めない部分有り原文を違訳しています。河野鉄兜名は羆通称絢夫文政八年播磨網干余子濱に生る幼にして俊秀人に擢て長じて博覧強記凡そ和漢の学究心はさるなう詩心其の最も嗜む所にして芳野懐古の七絶は人口に膾受する所なり 夙に尊王の大義を唱へ志國事にあり 林田藩に招聘され藩校敬業館教授となり慶応三年病没す 年四十三昭和三年正五位を贈らる