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今日は何の日 6月24日 嘉吉の乱

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神戸新聞では2023年から小史というコラムに加えて「今日は何の日」のコラムを掲載しています。本日(6月24日)のコラムでは嘉吉の乱を取り上げています。そこで嘉吉の乱について簡単に書いていきます。
嘉吉の乱(1441)
嘉吉元年(1441)6月24日、新暦換算では1441年7月21日播磨、備前、美作3国の守護赤松満祐(あかまつ みつすけ)は京都の私邸(京都西洞院二条)で室町幕府6代将軍足利義教公を殺害します。
さらに将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城に帰ります。そこから
足利ゆかりの安国寺(加東市東条町)で盛大な法要を営んで葬ったと伝えられています。
この事件を嘉吉の乱と呼び「嘉吉物語」や「嘉吉太平記」に詳しく書かれています。
足利義教の首級は7月1日、季瓊真蘂が赤松満祐に会い、義教の首の返還を求めた。
赤松満祐は快く首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、7月6日に等持院で
義教の葬儀が行われた。
室町幕府側の管領細川持之の要請で嘉吉の乱から2か月後に朝廷から赤松追討の綸言を得て
幕府軍として赤松勢と明石、塩屋で合戦し、小勢の赤松軍は敗れました。明石での合戦では
赤松満祐の弟の赤松祐尚が大蔵谷に陣を構え幕府軍と戦いました。赤松祐尚は中巌和尚を
敬慕していましたので、居城を三木に移すにあたり、陣屋の跡を寺院にしたと言います。
墓地には赤松祐尚夫妻の墓があり、夫婦の法号の「見江院」「大蔵院」が山号と寺名に
なっています。これが大蔵院のはじまりです。

赤松満祐は本拠地赤松村に帰り、城山城で戦ったが敗れて満祐は自害、子の教康も
逃げる途中で自害した。赤松満祐が将軍として擁立した足利義尊も殺されました。
この乱(嘉吉の乱)で播磨、備前、美作3国は没収され赤松氏の嫡流家は滅亡した。
上述した安国寺について2012年9月16日に訪問してブログを書いていますので概略を再掲載します。兵庫県加東市にある安国寺(播磨安国寺)は、足利尊氏、直義が後醍醐天皇と
戦没者を弔い及び国家安泰を願い全国一国一寺の安国寺68ヶ寺を1338年
に発願し、1339年開創されたお寺である。 
安国寺(播州安国寺)の基本情報
住所:兵庫県加東市新定851  TEL:0795-46-0455
宗派:臨済宗妙心寺派 開基:固山和尚 山号:東渓山
本尊:十一面観音
詳細は下記ブログを参照してください。 播州安国寺に残る室町6代将軍足利義教の首塚 0n 2012-9-26 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)  

上の写真は斑鳩寺三重塔。永禄8年(1565)再建。伽藍内最古の建物。重文(国)。
赤松政秀が、天下泰平を祈願して発願した、との銘文あり。撮影:2018年4月18日


上の写真は斑鳩寺(兵庫県太子町)の鐘楼(中央)と講堂(左手)撮影:2018年4月18日鐘楼は天正3年(1575)、赤松広秀により再建。
 上の写真は赤松正秀(1510?-1570)とその子、赤松広英(秀)=斎村政広の供養塔
龍野城主で斑鳩寺の再建の功労者です
元兵庫県知事 金井元彦氏などが発起され昭和38年(1963)10月に建立撮影:2018年4月18日この供養塔の裏面に赤松正秀と赤松広秀を顕彰する文章が刻まれています。「龍野城主赤松政秀文武の誉高く、その子広英亦文雅の才あり。藤原惺窩と善し、朝鮮の役に捕虜となりし大需姜沆の三人、伏見の赤松邸に於て慶長三年九月より一年有半、四書五経の訓点刊行を企て、戦乱の世にはじめて文芸復興の烽火(のろし)をあげ、但馬竹田で仁政を布き、名君として慕われしが、関ヶ原の戦いに石田三成に味方し、家康の怒りにふれ、慶長五年十月二十八日鳥取真教寺で自刃、年三十九才、赤松氏は悲しくも断絶した。斑鳩寺の鐘楼は、国宝三重塔を創建した父政秀の遺志を襲(つ)ぎ、竹田より寄進したものである。ここに有縁の士相寄り、政秀、広英父子の霊を弔い、その文化的偉業を永遠に顕彰するため、この碑を建立す。昭和三十八年十月建立  東大教授文学博士  阿部 吉雄  作家        有馬 頼義  兵庫県知事     金井 元彦  聖徳太子奉賛会長  嵯峨山作一  太子町長      上田 勝信  竜野市・医学博士  田中 敬三  元竹田町長     足立壮太郎  斑鳩寺住職     大谷 智真」赤松広英は関ヶ原の戦いでは最初西軍に属し細川幽斎篭る田辺城を攻め、その後蟄居していたところ亀井茲矩(これのり)に誘われて西軍の鳥取城を攻め開城させますが、鳥取城下を放火した罪を家康より厳しく咎められ亀井茲矩に罪を擦り付けられ自刃しています。この顕彰碑の両脇に五輪塔があり由来が刻まれています。「赤松満祐が室町時代の将軍義教を謀殺したため、細川・山名の大軍に攻められ、その最後の本拠地とした城山(きのやま)城で一族郎党が全滅した(嘉吉元年九月十日)。そのとき、援軍の将である東播磨の小田城主依藤左衛門大尉源惟次およびその家臣が、城山城の落城を聞き、いまの新宮町千本の草庵で自刃した跡に散乱していた遺骸をまとめて、赤松氏のシンボルとして政秀、広秀親子の碑の両側に合祀したものである。」

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