「由義寺(ゆげでら)跡)」は平成29年(2017)11月17日に開催された国の文化審議会 文化財分科会で審議され、文科大臣に対して国史跡に指定すると答申されました。平成30年(2018)2月13日の官報告示により「由義寺跡」が国史跡に指定されました。由義寺跡について令和5年(2023)4月から第5次発掘調査が行われ、6月24日(土)に調査の成果についての現地説明会が開催されました。その様子についてテレビで報道されていた記憶があります。
本ブログでは第5次発掘調査の概要を理解することと弓削氏出身の法相宗の僧・道鏡と銅鏡を寵愛した孝謙上皇(称徳天皇)により造営された西京の中心である由義寺(弓削廃寺)について纏めることとしました。また、道鏡と称徳天皇を中心とした政治について纏められたYoutube動画も紹介します。
最初に大阪府八尾市東弓削3丁目に所在の由義寺跡の写真(Google ストリートビュー)を添付。現地には由義寺跡と書かれた石碑と現地説明板があるようです。(上の写真)
国史跡「由義(ゆげ)寺跡」で、前身の弓削(ゆげ)寺のものとみられる基壇の規模が約17m四方だったことが発掘調査で判明し、八尾市が2023年6月22日発表した。2023年6月24日には現地説明会が行われました。現地説明会の詳細は下記サイト。 令和5年度 史跡由義寺跡発掘調査の現地説明会 | 八尾市 (city.yao.osaka.jp) 以下この基壇を下層基壇と表記。770年頃に建設された弓削寺の七重塔の基壇と思われる。
上の6枚の写真は現地説明会資料出典:令和5年(2023)6月24日、由義寺跡の発掘調査現地説明会資料
平成28年 (2016)11月からの発掘調査では一辺約20mの正方形の基壇が確認されている。この基壇を上層基壇と表記。上層基壇には弓削寺から由義寺に改称された時代の七重塔と推定される。上の写真は2016年-2017年の発掘調査で確認された約20mの上層基壇の発掘結果。出典:平成29年(2017)2月11日、由義寺跡の発掘調査現地説明会資料上の写真は七重の塔のイメージ出典:平成29年(2017)2月11日、由義寺跡の発掘調査現地説明会資料
『続日本紀』には、道鏡が建設に携わった由義寺の記述がある。2017年、大阪府八尾市教育委員会は、八尾市内の東弓削遺跡の七重塔基壇を含む寺院遺構を由義寺のものであると発表している
弓削氏の氏寺であった弓削寺は、一族の道鏡が孝謙太上天皇に抜擢されたことによってクローズアップされるようになる。そして、弓削宮とともに文字を「由義宮」・「由義寺」に改め、近辺の宅地を買収し壮麗な寺院として拡張整備される。孝謙は由義の地を平城京に匹敵する都にしようとしたのであり、由義寺はさしずめ由義宮の“東大寺”であったといってよい。孝謙(重祚して称徳天皇)にとって由義寺は、女帝と法王道鏡とによる共治体制、神仏習合政治を確立する手段であり、「由義宮」・「由義寺」はその拠点づくりでもあった。
弓削寺(由義寺)及び道鏡関連年表 742年 正倉院文書に「弓削寺僧行聖・・・」弓削寺初見史料 764年9月 藤原仲麻呂の乱後、道鏡が大臣禅師に 10月 淳仁天皇を廃して孝謙上皇が重祚し称徳天皇に 765年 称徳天皇が河内弓削寺へ行幸(10/29~閏11/3の5日間) 道鏡が太政大臣禅師に 766年 道鏡が法王に 769年 道鏡を天皇にすると天下泰平になるとの宇佐八幡宮の託宣が伝えられる 和気清麻呂が道鏡即位に反する託宣を持ち帰る(称徳天皇は激怒) 和気清麻呂 大隅に配流 称徳天皇、河内へ2回目の行幸(23日間)由義宮を「西京」に 770年 称徳天皇、河内へ3回目の行幸(39日間) 4月 称徳天皇が由義寺の塔の建設に関わった人達に位階 8月 称徳天皇が崩御(最後の天武系天皇、後継は天智系光仁天皇) 8月 道鏡が失脚し下野薬師寺(栃木)の造寺別当に 772年4月 道鏡、下野で死去
弓削寺はいつ建てられたか 弓削寺は称徳天皇や道鏡の意向で769年~770年に建設されました
藤原仲麻呂の乱 光明皇太后の厚い信頼を受けた藤原仲麻呂(恵美押勝)は749年新設の紫微中台(皇后宮職) の長官に任ぜられ、淳仁天皇から恵美押勝の名を賜る762年正一位、太政大臣となり、 養老律令を施行。権勢を誇った。764年孝謙上皇に重用されていた道鏡を除こうとして 乱をおこしたが失敗し、逆賊とされ琵琶湖湖畔で斬首される。
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上の6枚の写真は現地説明会資料出典:令和5年(2023)6月24日、由義寺跡の発掘調査現地説明会資料
平成28年 (2016)11月からの発掘調査では一辺約20mの正方形の基壇が確認されている。この基壇を上層基壇と表記。上層基壇には弓削寺から由義寺に改称された時代の七重塔と推定される。上の写真は2016年-2017年の発掘調査で確認された約20mの上層基壇の発掘結果。出典:平成29年(2017)2月11日、由義寺跡の発掘調査現地説明会資料上の写真は七重の塔のイメージ出典:平成29年(2017)2月11日、由義寺跡の発掘調査現地説明会資料
『続日本紀』には、道鏡が建設に携わった由義寺の記述がある。2017年、大阪府八尾市教育委員会は、八尾市内の東弓削遺跡の七重塔基壇を含む寺院遺構を由義寺のものであると発表している
弓削氏の氏寺であった弓削寺は、一族の道鏡が孝謙太上天皇に抜擢されたことによってクローズアップされるようになる。そして、弓削宮とともに文字を「由義宮」・「由義寺」に改め、近辺の宅地を買収し壮麗な寺院として拡張整備される。孝謙は由義の地を平城京に匹敵する都にしようとしたのであり、由義寺はさしずめ由義宮の“東大寺”であったといってよい。孝謙(重祚して称徳天皇)にとって由義寺は、女帝と法王道鏡とによる共治体制、神仏習合政治を確立する手段であり、「由義宮」・「由義寺」はその拠点づくりでもあった。
弓削寺(由義寺)及び道鏡関連年表 742年 正倉院文書に「弓削寺僧行聖・・・」弓削寺初見史料 764年9月 藤原仲麻呂の乱後、道鏡が大臣禅師に 10月 淳仁天皇を廃して孝謙上皇が重祚し称徳天皇に 765年 称徳天皇が河内弓削寺へ行幸(10/29~閏11/3の5日間) 道鏡が太政大臣禅師に 766年 道鏡が法王に 769年 道鏡を天皇にすると天下泰平になるとの宇佐八幡宮の託宣が伝えられる 和気清麻呂が道鏡即位に反する託宣を持ち帰る(称徳天皇は激怒) 和気清麻呂 大隅に配流 称徳天皇、河内へ2回目の行幸(23日間)由義宮を「西京」に 770年 称徳天皇、河内へ3回目の行幸(39日間) 4月 称徳天皇が由義寺の塔の建設に関わった人達に位階 8月 称徳天皇が崩御(最後の天武系天皇、後継は天智系光仁天皇) 8月 道鏡が失脚し下野薬師寺(栃木)の造寺別当に 772年4月 道鏡、下野で死去
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