2023年8月25日に建て替え工事が進行中の垂水小学校の写真を撮りましたので紹介します。併せて2023年4月9日に行われた東校舎の公開日に撮った写真も紹介します。撮影日を記載していない写真は全て2023年4月9日の撮影です。
上の2枚の写真は解体された垂水小学校の東校舎 撮影:2023-8-25今後、発掘調査(垂水日向遺跡第45次?)も実施される予定の場所でもあります。上の写真は垂水小学校の東校舎の解体撤去工事の予定が書かれた掲示
上の2枚の写真は完成イメージ予想図と図面 撮影:2022-3-24
垂水小学校建設工事の概要神戸市立 垂水小学校は2022年に150周年を迎えました。150周年を記念して老朽化して耐震強度に問題がある北校舎と東校舎を撤去し、新たに3,4,5階に体育館を備えた西校舎(完成済)と4-5階にプールを備えた南校舎が新築される計画で工事が進行しています。建設工事の開始は令和4年(2022)の1月からです。完了予定は令和8年(2026)。総工費:44億円 概略工程は以下のとおりです。 2022年度 西校舎の建設工事(完了) 2023年度 東校舎の解体工事及び文化財調査 2024年度 南校舎の建設工事 2025年度 北校舎の解体工事 体育倉庫建設及び運動場整備
2023年4月9日に公開された西校舎(本館)一般公開(2023-4-9)の掲示物 0 (kobe-c.ed.jp) 上の写真は北校舎も含めた校舎の平面図
上の写真は東校舎(本館)の平面図(拡大)
東校舎(本館の外観)
東校舎(本館)の1階上の写真は1階の廊下
上の2枚の写真は理科室
上の写真は理科準備室
上の写真は職員室上の写真は事務室に関する掲示
上の2枚の写真は放送室と掲示物上の写真は1階から2階への階段
上の4枚の写真は給食室と掲示
本館(東校舎)2階
上の2枚の写真は2階の廊下
上の写真は2階の水洗い場
上の3枚の写真はコンピューター室と掲示
上の写真は垂水教育相談所上の写真は施設開放教室上の写真は通級教室上の写真は通級指導教室上の写真は郷土資料室の掲示上の写真は2階職員室と相談室の入口上の写真は2階北側の階段
東校舎(本館)3階
上の2枚の写真は講堂
上の5枚の写真は100周年記念レリーフ(講堂に掲示)上の写真は3階南側の階段
北校舎と西校舎
創立150周年垂水小学校の歩み
垂水小学校の昔の写真が1階と2階の南側に掲示されていました。貴重な写真です。
上の写真は明治8年(1875)の徹道(てつどう)学校の卒業証書です。
神戸市立垂水小学校は明治6年(1873)3月7日に西垂水村洞養寺(とうようじ)
にできました。現在の神戸市内で5番目の小学校として設立されました。垂水小学校の150周年は上記明治6年(1873)3月7日が起点となっています。従って2023年(令和5年)3月17日が150回目の創立記念日となっています。
西垂水村の児童が学び児童数は23名程度だったようです。
3年間で卒業するシステムでした。名前は徹道学校と言っていたようです。
現在の神戸市立垂水小学校の前身となります。
また東垂水村の児童は玉林寺(ぎょくりんじ)の境内で洞養寺と同じ時期に児童11名が
学んでいました。玉林寺の学校は昔の垂水村役場付近にあったようです。当時の名称は垂水学校。
名谷地区での小学校ですが明治6年(1873)3月奥畑地区に名渓小学校(石水寺)、
西名・東名・滑・中山に龍華小学校(転法輪寺と明王寺)が設置され明治6年(1873)
6月には名渓小学校が廃止され龍華小学校に合併された。
明治12年(1879)9月29日、「学制」を廃して「教育令」が施行された。義務教育として年限16ヶ月の制度で、これにより西垂水村の全児童が小学校に行くようになった。明治19年(1886)政府は「帝国大学令」「師範学校令」「中学令」「小学令」を公布。明治20年(1887)4月1日、徹道学校、垂水学校などは簡易小学校となった。明治24年(1891)4月1日、垂水尋常小学校となります。
明治26年(1893)4月20日、垂水尋常小学校に高等科を併置し垂水尋常高等小学校と改称。 高等科の修業年限は2年であった。明治32年(1899)4月1日に高等科の修業年限が3年となります。明治33年(1900)4月1日に高等科の修業年限を4年に延長し、裁縫専修科を併置(修業年限4年)明治33年(1900)4月9日、垂水高等尋常小学校の校舎が手狭になったため、高等科1,2年生を 垂水村役場楼上に移転し、また東垂水村植田徳次郎の建物を借用した。 その間に東垂水村北川西の玉林寺境内の一部とその隣接地934坪を買収し 2階建て教室50坪、本校舎2階建70坪、平屋教室50坪、裁縫室20坪などが建造明治34年(1901)2月26日、垂水尋常小学校として初めて独立校舎の落成式が実施された。
明治34年(1901)に玉林寺に校舎ができるまでは洞養寺と王林寺の両寺で勉強していました。
明治36年(1903)4月1日、裁縫専修科を廃し垂水裁縫学校を設置する。修業年限は4年。明治41年(1908)4月1日、尋常科修業年限を6年に延長し、高等科修業年限を2年に改正 同年、名谷小学校、塩屋小学校が垂水小学校の分校となり両校には4年生以下を収容 5年生以上は垂水小学校に通学することになった。上の写真は明治43年(1910)垂水尋常高等小学校時代の校舎(玉林寺)松が多く残っています。明治44年(1911)、名谷、塩屋の両校は再び垂水小学校より分離し名谷尋常小学校、塩屋尋常小学校と改称大正10年(1921)10月、西垂水字縄手(現在地) に2,521坪の土地を選定し、垂水尋常小学校の移転改築開始大正11年(1922)4月1日、第一期工事竣工(12教室)尋常小学校5年以上が移転大正12年(1922)12月 第二期工事竣工大正13年(1923)4月1日、尋常4年生以下も全員新校舎に移転上の写真は昭和2年(1927)頃の垂水小学校出典:垂水センター街に展示の垂水歴史館の掲示より 撮影:2021-10-26
昭和3年(1928)4月1日、町制実施により垂水町立垂水尋常高等小学校となった上の写真は昭和7年(1932)の垂水小学校出典:垂水センター街に展示の垂水歴史館の掲示より 撮影:2021-10-26
昭和8年(1933)2月18日、6教室(75坪)の増築工事が竣工昭和10年(1935)西垂水字大町(現在の高丸)に2,160坪の校地を確保し垂水小学校の大町分校建設に着手昭和11年(1936)3月に竣工(23教室)、4月から尋常5年、6年の児童が移転昭和16年(1941)4月1日、垂水国民学校と改称 同年7月1日、神戸市への合併により神戸市立垂水国民学校となる昭和20年(1945)6月5日戦火により大町校舎(高丸)が全 焼。 全児童を日向校舎に収容。全校2部授業。昭和22年(1947)4月1日、6・3・3制実施により神戸市立垂水小学校と改称昭和26年(1951)4月1日、垂水小学校は児童数4,300人、学級数76、教員110人、日本一のマンモス校となった。
昭和27年(1952)4月1日、垂水 高丸 霞ヶ丘校区に分割され独立校になる (高丸 、霞ヶ丘の2校が新設)昭和29年(1954)4月1日、東垂水小学校が分離独立 。これにより4校分離計画が完成した。昭和31年(1956)8月29日、校舎改築第一期工事 鉄筋二階建竣工 昭和32年(1957)7月20日、校舎改築第二期工事 鉄筋二階建本館竣工 昭和33年(1958)8月5日、校舎改築第三期工事 鉄筋三階建北校舎竣工上の写真は昭和34年(1959)新たに建てられ間もない頃の東校舎(本館)昭和34年(1959)3月31日、講堂竣工。11月より内装工事昭和35年(1960)2月11日、講堂落成式 以降の出来事は垂水小学校の公式サイトの沿革に詳しく記載されていますので 本ブログでは記載を省略します。
上の写真は昭和41年(1966)頃の垂水小学校出典:垂水センター街に展示の垂水歴史館の掲示より 撮影:2021-10-26
上の写真は大正3年(1914)垂水尋常高等小学校時代の卒業証書(左)と昭和18年(1943)垂水国民学校時代の卒業証書(右)上の写真は昭和22年(1947)に撮られた野球部などのメンバー集合写真上の写真は昭和34年(1959)新たに建てられ間もない頃の東校舎(本館)上の写真は明治43年(1910)垂水尋常高等小学校時代の校舎
上の写真は昭和8年(1933)の垂水小学校の校舎上の写真は大正6年(1917)に撮影された職員の写真です。上の写真は大正6年(1917)の薙刀(なぎなた)の教練上の写真は明治32年(1899)の卒業式上の写真は明治35年(1902)の卒業式上の写真は明治44年(1911)の卒業式
上の写真は大正10年(1921)に撮影された卒業記念写真
上の3枚の写真は昔、使用されていた教科書上の写真は明治時代初め頃の授業の風景を描いたもの
上の2枚の写真は解体された垂水小学校の東校舎 撮影:2023-8-25今後、発掘調査(垂水日向遺跡第45次?)も実施される予定の場所でもあります。上の写真は垂水小学校の東校舎の解体撤去工事の予定が書かれた掲示
上の2枚の写真は完成イメージ予想図と図面 撮影:2022-3-24
垂水小学校建設工事の概要神戸市立 垂水小学校は2022年に150周年を迎えました。150周年を記念して老朽化して耐震強度に問題がある北校舎と東校舎を撤去し、新たに3,4,5階に体育館を備えた西校舎(完成済)と4-5階にプールを備えた南校舎が新築される計画で工事が進行しています。建設工事の開始は令和4年(2022)の1月からです。完了予定は令和8年(2026)。総工費:44億円 概略工程は以下のとおりです。 2022年度 西校舎の建設工事(完了) 2023年度 東校舎の解体工事及び文化財調査 2024年度 南校舎の建設工事 2025年度 北校舎の解体工事 体育倉庫建設及び運動場整備
2023年4月9日に公開された西校舎(本館)一般公開(2023-4-9)の掲示物 0 (kobe-c.ed.jp) 上の写真は北校舎も含めた校舎の平面図
上の写真は東校舎(本館)の平面図(拡大)
東校舎(本館の外観)
東校舎(本館)の1階上の写真は1階の廊下
上の2枚の写真は理科室
上の写真は理科準備室
上の写真は職員室上の写真は事務室に関する掲示
上の2枚の写真は放送室と掲示物上の写真は1階から2階への階段
上の4枚の写真は給食室と掲示
本館(東校舎)2階
上の2枚の写真は2階の廊下
上の写真は2階の水洗い場
上の3枚の写真はコンピューター室と掲示
上の写真は垂水教育相談所上の写真は施設開放教室上の写真は通級教室上の写真は通級指導教室上の写真は郷土資料室の掲示上の写真は2階職員室と相談室の入口上の写真は2階北側の階段
東校舎(本館)3階
上の2枚の写真は講堂
上の5枚の写真は100周年記念レリーフ(講堂に掲示)上の写真は3階南側の階段
北校舎と西校舎
創立150周年垂水小学校の歩み
垂水小学校の昔の写真が1階と2階の南側に掲示されていました。貴重な写真です。
上の写真は明治8年(1875)の徹道(てつどう)学校の卒業証書です。
神戸市立垂水小学校は明治6年(1873)3月7日に西垂水村洞養寺(とうようじ)
にできました。現在の神戸市内で5番目の小学校として設立されました。垂水小学校の150周年は上記明治6年(1873)3月7日が起点となっています。従って2023年(令和5年)3月17日が150回目の創立記念日となっています。
西垂水村の児童が学び児童数は23名程度だったようです。
3年間で卒業するシステムでした。名前は徹道学校と言っていたようです。
現在の神戸市立垂水小学校の前身となります。
また東垂水村の児童は玉林寺(ぎょくりんじ)の境内で洞養寺と同じ時期に児童11名が
学んでいました。玉林寺の学校は昔の垂水村役場付近にあったようです。当時の名称は垂水学校。
名谷地区での小学校ですが明治6年(1873)3月奥畑地区に名渓小学校(石水寺)、
西名・東名・滑・中山に龍華小学校(転法輪寺と明王寺)が設置され明治6年(1873)
6月には名渓小学校が廃止され龍華小学校に合併された。
明治12年(1879)9月29日、「学制」を廃して「教育令」が施行された。義務教育として年限16ヶ月の制度で、これにより西垂水村の全児童が小学校に行くようになった。明治19年(1886)政府は「帝国大学令」「師範学校令」「中学令」「小学令」を公布。明治20年(1887)4月1日、徹道学校、垂水学校などは簡易小学校となった。明治24年(1891)4月1日、垂水尋常小学校となります。
明治26年(1893)4月20日、垂水尋常小学校に高等科を併置し垂水尋常高等小学校と改称。 高等科の修業年限は2年であった。明治32年(1899)4月1日に高等科の修業年限が3年となります。明治33年(1900)4月1日に高等科の修業年限を4年に延長し、裁縫専修科を併置(修業年限4年)明治33年(1900)4月9日、垂水高等尋常小学校の校舎が手狭になったため、高等科1,2年生を 垂水村役場楼上に移転し、また東垂水村植田徳次郎の建物を借用した。 その間に東垂水村北川西の玉林寺境内の一部とその隣接地934坪を買収し 2階建て教室50坪、本校舎2階建70坪、平屋教室50坪、裁縫室20坪などが建造明治34年(1901)2月26日、垂水尋常小学校として初めて独立校舎の落成式が実施された。
明治34年(1901)に玉林寺に校舎ができるまでは洞養寺と王林寺の両寺で勉強していました。
明治36年(1903)4月1日、裁縫専修科を廃し垂水裁縫学校を設置する。修業年限は4年。明治41年(1908)4月1日、尋常科修業年限を6年に延長し、高等科修業年限を2年に改正 同年、名谷小学校、塩屋小学校が垂水小学校の分校となり両校には4年生以下を収容 5年生以上は垂水小学校に通学することになった。上の写真は明治43年(1910)垂水尋常高等小学校時代の校舎(玉林寺)松が多く残っています。明治44年(1911)、名谷、塩屋の両校は再び垂水小学校より分離し名谷尋常小学校、塩屋尋常小学校と改称大正10年(1921)10月、西垂水字縄手(現在地) に2,521坪の土地を選定し、垂水尋常小学校の移転改築開始大正11年(1922)4月1日、第一期工事竣工(12教室)尋常小学校5年以上が移転大正12年(1922)12月 第二期工事竣工大正13年(1923)4月1日、尋常4年生以下も全員新校舎に移転上の写真は昭和2年(1927)頃の垂水小学校出典:垂水センター街に展示の垂水歴史館の掲示より 撮影:2021-10-26
昭和3年(1928)4月1日、町制実施により垂水町立垂水尋常高等小学校となった上の写真は昭和7年(1932)の垂水小学校出典:垂水センター街に展示の垂水歴史館の掲示より 撮影:2021-10-26
昭和8年(1933)2月18日、6教室(75坪)の増築工事が竣工昭和10年(1935)西垂水字大町(現在の高丸)に2,160坪の校地を確保し垂水小学校の大町分校建設に着手昭和11年(1936)3月に竣工(23教室)、4月から尋常5年、6年の児童が移転昭和16年(1941)4月1日、垂水国民学校と改称 同年7月1日、神戸市への合併により神戸市立垂水国民学校となる昭和20年(1945)6月5日戦火により大町校舎(高丸)が全 焼。 全児童を日向校舎に収容。全校2部授業。昭和22年(1947)4月1日、6・3・3制実施により神戸市立垂水小学校と改称昭和26年(1951)4月1日、垂水小学校は児童数4,300人、学級数76、教員110人、日本一のマンモス校となった。
昭和27年(1952)4月1日、垂水 高丸 霞ヶ丘校区に分割され独立校になる (高丸 、霞ヶ丘の2校が新設)昭和29年(1954)4月1日、東垂水小学校が分離独立 。これにより4校分離計画が完成した。昭和31年(1956)8月29日、校舎改築第一期工事 鉄筋二階建竣工 昭和32年(1957)7月20日、校舎改築第二期工事 鉄筋二階建本館竣工 昭和33年(1958)8月5日、校舎改築第三期工事 鉄筋三階建北校舎竣工上の写真は昭和34年(1959)新たに建てられ間もない頃の東校舎(本館)昭和34年(1959)3月31日、講堂竣工。11月より内装工事昭和35年(1960)2月11日、講堂落成式 以降の出来事は垂水小学校の公式サイトの沿革に詳しく記載されていますので 本ブログでは記載を省略します。
上の写真は昭和41年(1966)頃の垂水小学校出典:垂水センター街に展示の垂水歴史館の掲示より 撮影:2021-10-26
上の写真は大正3年(1914)垂水尋常高等小学校時代の卒業証書(左)と昭和18年(1943)垂水国民学校時代の卒業証書(右)上の写真は昭和22年(1947)に撮られた野球部などのメンバー集合写真上の写真は昭和34年(1959)新たに建てられ間もない頃の東校舎(本館)上の写真は明治43年(1910)垂水尋常高等小学校時代の校舎
上の写真は昭和8年(1933)の垂水小学校の校舎上の写真は大正6年(1917)に撮影された職員の写真です。上の写真は大正6年(1917)の薙刀(なぎなた)の教練上の写真は明治32年(1899)の卒業式上の写真は明治35年(1902)の卒業式上の写真は明治44年(1911)の卒業式
上の写真は大正10年(1921)に撮影された卒業記念写真
上の3枚の写真は昔、使用されていた教科書上の写真は明治時代初め頃の授業の風景を描いたもの