上月豊蔭の顕彰碑 in 海神社に関して下記のブログで書いた。 明治期の垂水海神社と海神社宮司の上月豊蔭の顕彰碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)今回、大正12年3月に垂水村が纏めた「垂水誌」のPage61-63に顕彰碑の碑文が掲載されているのを見つけたの引用紹介します。
さらに、播磨・海神社 - SHINDEN というサイトに歴代宮司の名前が掲載されていたので忘れないうちにメモとして残しておきます。(下記赤字) 上月豊蔭(1840-1900)<1881->:明治時代の歌人。本居豊穎に和歌を学ぶ。1873年(明治6年)3月(1881年(明治14年)とも)、海神社宮司。上月為蔭(1865-1925)<>:湊川神社宮司。寺井種長(1894-1968)<1936-1941>:(略歴は、大阪天満宮#組織を参照)紀俊嗣(1898-1984)<1941-1944>:(略歴は、日前神宮#組織を参照)稲村真里()<>:(経歴は香椎宮#組織を参照)田村千秋伊藤孝二安藤範和近藤公博 以下は2022年1月15日に書いた下記ブログの文章、写真を再掲しました。 上月豊蔭の顕彰碑 in 海神社(神戸市垂水区) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
まずは海神社の上月豊蔭の顕彰碑の写真を添付しておきます。Image may be NSFW.
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上の2枚の写真は明治期に長くにわたり海神社の宮司を務めた上月豊蔭の顕彰碑の
遠景と近景。設置場所は駐車場の詰所(トイレの近く)の脇にあります。撮影は2019年1月16日碑文「海神社宮司正六位上月ぬしはむかしこの国の佐用郡なる上月山の城主たりし上月刑部少輔の裔にして十世景勝ぬしの後より射盾兵主神社の神職となりてありしまゝに父為彦ぬしの後をうけ継ぎたりしが明治4年に姫路藩権大属となり同6年より海神社宮司にて28年の間ひたぶるに御社の為に心をつくし神殿を始めすべて新たに造り仕へ奉りつひに官幣の列にさへ申し進め奉りきその性は潔く雄々しくもの学びには志厚く歌よむさえもすぐれてこの近き国の人々大かたにしの教をうけざるものなきさまなりしに年ころの病にはかにはげしくなりてあへなく身うせぬるを人々と共にをしみ難きしもはや一年の昔となりぬあわれ年月はいやさかりゆかんにもぬしか御社の為めにたてし功とうまし名とは今建おく碑の堅磐と共に萬代遠くくちむ時あらめやも 明治34年11月 東宮侍講従四位勲四等本居豊穎」上述の「垂水誌」は著作権が消滅していますので原文をコピーして添付しておきます。Image may be NSFW.
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上月豊蔭に関する記述以外に奥畑の在原家、舞子介類館、舞子焼、玉井温泉に関する歴史が記されています。 また、前回の記事で上月豊蔭宮司について調べて判った事を再記載しておきます。上月豊蔭 (こうづきとよかげ)1840年-1900年
明治時代の歌人。
天保11年(1840)生まれ。姫路藩士の子。和歌を本居豊穎(もとおり とよかい)に学び
また書がたくみであった。
上月刑部少輔の末裔。上月刑部少輔景盛(上月次郎)は上月荘(佐用郡上月村)に住む。
建武元年(1334)上月山城築城。景盛の子の上月刑部少輔景忠が居城としたとする。
父親の名前は為彦。
海神社の宮司になる前は兵主神社の神職を務めていた
明治6年(1873)神戸・垂水の海(わたつみ)神社の宮司となる。
死去までの28年間宮司を務める。
明治33年(1900)11月5日死去。60歳。通称は修理之進。号は桜花真人。
明治33年(1900)11月7日に正六位を叙勲
顕彰碑は明治34年(1901)11月に建立
東京府知事 正三位勲三等男爵千家尊福翁が題額の字を書かれています。
千家と言えば出雲大社の宮司として有名ですが千家尊福は
「♪と~し~のは~じめのためしとて~」で知られる唱歌 「一月一日」の作詞者です。
文章は従四位勲四等の本居豊穎が担当顕彰碑の書は正七位の海神社宮司 田村千秋 海神社に関して基本情報の他、簡単に紹介しておきます。海神社の基本情報
住所:神戸市垂水区宮本町5-1 TEL:078-707-0188及び0189
御祭神:底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神
末社:蛭子神社、天神社
公式サイト:海神社 (kaijinjya.main.jp) 海神社は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神を祀っており、社伝では
千数百年の歴史があり、神功皇后が三韓へ出兵帰途のとき、垂水沖で軍船が暴風雨に
見舞われたが、鎮静を祀ったところ、暴風雨がおさまり、無事に都へ帰れたというのが
鎮座の由来とい言われている。通常かいじんじゃという名前で呼ばれていますが
「綿津見(わたつみ)神社」という別名で呼ばれる場合もあります。
別称としては他に日向大明神、衣財田大明神、海(あま)神社、垂水(たるみ)神社。
神戸市垂水区を代表する神社である。
毎年10月10日より12日に行われる秋の例祭は垂水地区の布団太鼓の練りがあり
賑わいます。秋の例祭では船舶の安全を願い魚業発展を祈願する海上渡御と陸上での
神輿巡業もあります。
秋の例祭関連のブログ:2018年 海神社秋祭り
2017年 海神社の秋祭り
2016年 海神社秋祭りの情報最後に、上月豊蔭の長男で湊川神社の第9代宮司 上月為蔭(1865-1925)について過去にブログを作成していますのリンクしておきます。 湊川神社 第9代宮司 上月為蔭について - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
さらに、播磨・海神社 - SHINDEN というサイトに歴代宮司の名前が掲載されていたので忘れないうちにメモとして残しておきます。(下記赤字) 上月豊蔭(1840-1900)<1881->:明治時代の歌人。本居豊穎に和歌を学ぶ。1873年(明治6年)3月(1881年(明治14年)とも)、海神社宮司。上月為蔭(1865-1925)<>:湊川神社宮司。寺井種長(1894-1968)<1936-1941>:(略歴は、大阪天満宮#組織を参照)紀俊嗣(1898-1984)<1941-1944>:(略歴は、日前神宮#組織を参照)稲村真里()<>:(経歴は香椎宮#組織を参照)田村千秋伊藤孝二安藤範和近藤公博 以下は2022年1月15日に書いた下記ブログの文章、写真を再掲しました。 上月豊蔭の顕彰碑 in 海神社(神戸市垂水区) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
まずは海神社の上月豊蔭の顕彰碑の写真を添付しておきます。Image may be NSFW.
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遠景と近景。設置場所は駐車場の詰所(トイレの近く)の脇にあります。撮影は2019年1月16日碑文「海神社宮司正六位上月ぬしはむかしこの国の佐用郡なる上月山の城主たりし上月刑部少輔の裔にして十世景勝ぬしの後より射盾兵主神社の神職となりてありしまゝに父為彦ぬしの後をうけ継ぎたりしが明治4年に姫路藩権大属となり同6年より海神社宮司にて28年の間ひたぶるに御社の為に心をつくし神殿を始めすべて新たに造り仕へ奉りつひに官幣の列にさへ申し進め奉りきその性は潔く雄々しくもの学びには志厚く歌よむさえもすぐれてこの近き国の人々大かたにしの教をうけざるものなきさまなりしに年ころの病にはかにはげしくなりてあへなく身うせぬるを人々と共にをしみ難きしもはや一年の昔となりぬあわれ年月はいやさかりゆかんにもぬしか御社の為めにたてし功とうまし名とは今建おく碑の堅磐と共に萬代遠くくちむ時あらめやも 明治34年11月 東宮侍講従四位勲四等本居豊穎」上述の「垂水誌」は著作権が消滅していますので原文をコピーして添付しておきます。Image may be NSFW.
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明治時代の歌人。
天保11年(1840)生まれ。姫路藩士の子。和歌を本居豊穎(もとおり とよかい)に学び
また書がたくみであった。
上月刑部少輔の末裔。上月刑部少輔景盛(上月次郎)は上月荘(佐用郡上月村)に住む。
建武元年(1334)上月山城築城。景盛の子の上月刑部少輔景忠が居城としたとする。
父親の名前は為彦。
海神社の宮司になる前は兵主神社の神職を務めていた
明治6年(1873)神戸・垂水の海(わたつみ)神社の宮司となる。
死去までの28年間宮司を務める。
明治33年(1900)11月5日死去。60歳。通称は修理之進。号は桜花真人。
明治33年(1900)11月7日に正六位を叙勲
顕彰碑は明治34年(1901)11月に建立
東京府知事 正三位勲三等男爵千家尊福翁が題額の字を書かれています。
千家と言えば出雲大社の宮司として有名ですが千家尊福は
「♪と~し~のは~じめのためしとて~」で知られる唱歌 「一月一日」の作詞者です。
文章は従四位勲四等の本居豊穎が担当顕彰碑の書は正七位の海神社宮司 田村千秋 海神社に関して基本情報の他、簡単に紹介しておきます。海神社の基本情報
住所:神戸市垂水区宮本町5-1 TEL:078-707-0188及び0189
御祭神:底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神
末社:蛭子神社、天神社
公式サイト:海神社 (kaijinjya.main.jp) 海神社は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神を祀っており、社伝では
千数百年の歴史があり、神功皇后が三韓へ出兵帰途のとき、垂水沖で軍船が暴風雨に
見舞われたが、鎮静を祀ったところ、暴風雨がおさまり、無事に都へ帰れたというのが
鎮座の由来とい言われている。通常かいじんじゃという名前で呼ばれていますが
「綿津見(わたつみ)神社」という別名で呼ばれる場合もあります。
別称としては他に日向大明神、衣財田大明神、海(あま)神社、垂水(たるみ)神社。
神戸市垂水区を代表する神社である。
毎年10月10日より12日に行われる秋の例祭は垂水地区の布団太鼓の練りがあり
賑わいます。秋の例祭では船舶の安全を願い魚業発展を祈願する海上渡御と陸上での
神輿巡業もあります。
秋の例祭関連のブログ:2018年 海神社秋祭り
2017年 海神社の秋祭り
2016年 海神社秋祭りの情報最後に、上月豊蔭の長男で湊川神社の第9代宮司 上月為蔭(1865-1925)について過去にブログを作成していますのリンクしておきます。 湊川神社 第9代宮司 上月為蔭について - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)