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小野出身 郷土の偉大な歌人上田三四二の歌碑 on 2023-10-18

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2023年10月18日、小野市立好古館特別展「お堂の道具あれこれ」を観覧するため小野市へ神戸電鉄で出かけていました。好古館は9時30分からの開館であるが少し早めに到着したので好古館の周辺を散策して写真を撮りました。今回は郷土の偉大な歌人上田三四二の歌碑の写真を紹介します。

上の写真が郷土の偉大な歌人上田三四二の歌碑です。歌碑は小野市立好古館の裏手の庭、茶室 柳風亭の入口付近にあります。平成5年(1993)に建立されました。


上の2枚の写真は少し拡大して撮りました。 歌碑は「ちる花は数かぎりなし        ことごとく光をひきて                 谷にゆくかも」   上記の上田三四二の代表作の歌が刻まれています。
説明板には下記のように解説されています。(一部加筆)郷土の偉大な歌人上田三四二(大正12年ー平成元年)は小野市樫山町に生まれる。歌人、作家、文芸評論家、医学博士。
この唄は歌集「湧井」所収 代表作の一つとして知られる歌である。(昭和44年作)昭和41年に大意 人間の生と死を見つめる独自のテーマを確立した時期の作品である。以後 このテーマは短歌、評論、小説などでその奥行きを深められた短歌、評論、小説と広範な分野にわたる文学上の業績により日本芸術院賞をはじめ数々の賞を受賞。宮中歌会始め詠集歌の選者を(昭和58年より8年間)勤めた。上田 三四二生誕の地小野市ではこの功績をたたえ 後世に伝えるため歌碑をここに建立する。
上田三四二先生の紹介 By Wikipedia
上田三四二(うえだみよじ) (大正12年(19237月21日)- 平成元年(1989)1月8日)は日本の歌人、小説家、文芸評論家。
兵庫県加東郡市場村字樫山(現・小野市樫山町)出身。柏原中学、第三高等学校、京都帝国大学医学部卒。内科医として国立京都療養所や国立療養所東京病院に勤務。
1949年に歌誌「新月」に参加し、アララギ派の歌人として出発。1956年には歌会「青の会」結成に参加。歌は愛の声であり、浄念(清い思い)であると唱えた。二度の大病を経て、晩年は生命の内面を見つめ直した著述が多くなっていく。1979年~84年には、宮中歌会始選者を務めている。平成改元最初の日に没した。
評伝に、小高賢『この一身は努めたり 上田三四二の生と文学』がある(トランスビュー、2009年、著者は歌人で元・講談社編集者の鷲尾賢也)。
我が生まれ故郷の宇治市の橋寺には下記の歌碑が建立されています。「橋寺にいしふみ見れば宇治川や大きいにしえは河超えかねき」この歌は上田三四二先生が三高時代の作で三高会報七十六号に掲載されました。平成3年10月6日建立で、露子夫人のご希望もあった。名作「花衣」の中の「橋姫」。日本最古の石碑と言われる橋寺断碑がここに甦る。
橋寺の断碑に関する記事は小生のBlogでも紹介しています。橋寺 放生院(ほうじょういん)

上の2枚の写真は好古館の常設展示で肖像写真、略歴、愛用品、原稿など
おまけの写真として走行中の神戸電鉄の車両の写真を添付して筆を置きます。

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