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海軍操練所跡発掘調査 現場説明会参加録 on 2024-1-13

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2024年1月13日(土)、海軍操練所跡発掘調査 現場説明会に参加しました。記憶が新鮮なうちにレビューしておこうと筆をとりました。写真で特記していないものは全て2024年1月13日に撮影した写真又は動画です。
現地説明会に関する詳しい情報は下記リンク 神戸市:海軍操練所跡の発掘調査現場公開 (kobe.lg.jp) 
尚、現地説明会の資料は後日、神戸市埋蔵文化財センターのサイトで公開されるそうです。参加できなかった皆様はこちらの資料を参照されれば良いかと思います。ウオーターフロントの再開発にあたり、2023年から発掘調査を進められていた。地下約1.5m付近から、石を垂直に積む「布積み」と呼ばれる江戸期の工法で造られた防波堤跡を確認。検出されたのは一部だが、全体では高さ約1.5m、幅約6m、長さ約26mに及ぶとみられる。上部の地層からは、この防波堤を土台に拡充されていった防波堤跡も見つかった。


上の2枚の写真は当日の現地説明会の様子です。30分ごとの入れ替え制で実施されました。多くの参加者で賑わっていました。 2024年1月13日(土曜)13時00分から15時00分
 2024年1月14日(日曜)11時00分から15時00分
当日撮ったYoutube動画神戸 海軍操練所跡 発掘調査 現地地説明会 on 2024-1-13 その1
神戸 海軍操練所跡 発掘調査 現地地説明会 on 2024-1-13 その2  
神戸 海軍操練所跡 発掘調査 現地地説明会 on 2024-1-13 その3
神戸 海軍操練所跡 発掘調査 現地地説明会 on 2024-1-13 その4  
神戸 海軍操練所跡 発掘調査 現地地説明会 on 2024-1-13 その5
上の写真は現地説明会の会場看板
現地の概要を理解するためにサンテレビのYoutube動画をGooで共有させていただきました。「日本近代史で重要な位置を占める」神戸港から海軍操練所跡と考えられる遺構  同じく年末(12月26日)の神戸新聞NEXTの記事にもリンクしておきます。 坂本龍馬も学んだ「神戸海軍操練所」遺構か 幕末に勝海舟の進言で開設、石積みの防波堤発見 神戸・中央区|社会|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp) 
また、実際に現地説明会に行かれた方が書かれたサイトにリンクさせていただきました。 港町神戸発祥の地・発掘現場の説明会 | 艦艇・船舶つれづれ (ameblo.jp) 
 【神戸市】勝海舟が進言して出来た『神戸海軍操練所と考えられる遺構』現地説明会 1月13日・14日に開催<予約申込開始>何の発掘調査か気になってました…。 | 号外NET 神戸市灘区・東灘区 (goguynet.jp) 
 神戸海軍操練所跡の発掘現場を見学! | Every day is a new day! (ameblo.jp) 
 神戸海軍操練所跡にて歴史ロマンに触れた日 - かわなみ忠和(カワナミタダカズ) | 選挙ドットコム (go2senkyo.com)
まず、神戸海軍操練所の概要を記載しておきます。
神戸海軍操練所と付属の寄宿舎工事は文久3年(1863)「海軍操練所」建設掛の辞令を受けた軍艦奉行並の勝海舟の指揮のもと建設が進められ元治元年(1864)5月、開校とともに幕府から、年経費3,000両と長崎伝習所の所属であった観光丸と新たに米国製の練習蒸気船「黒龍丸」が配備され原料の石炭は鷹取山から採鉱さらに長崎造船所施設を神戸に移すという約束が結ばれました。操練所には公募により幕臣のみならず諸藩の家士や浪士、さらに勝の私塾生らも含めて総勢200名以上が集まった。航海術習得の厳しい訓練を通じて海外に目を向けようとの目論見の方が大きかったが一部の塾生が長州藩の起こした「禁門の変」の関係者がいたことなどから幕府の当局者に嫌われ、勝海舟は免職、操練所は元治2年(1865)3月12日(9日、18日の説もあり)に廃止された。操練所からは幕末の英雄坂本龍馬をはじめ、陸奥宗光、伊東祐享(すけゆき)ら多数の俊才を輩出した。





落合重信著「神戸の歴史 通史編」(1975)のPage133に掲載された
神戸海軍操練所の平面図を添付しておきます。(上の写真)また、神戸市立中央図書館のアーカイブで神戸海軍操練所平面図が掲載されていますのでリンクさせていただきました。 神戸海軍操練所平面図|神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズ (kobe.lg.jp) 
こちらの資料には海軍操練所の北方に、勝海舟の屋敷地(私塾)も記されています。勝海舟が海軍操練所を開設するに当って神戸で勝海舟を支えた人物として
網屋吉兵衛・生島四郎太夫の名前を忘れてはなりません。文永3年(1863年)、網屋吉兵衛は小野浜において将軍徳川家茂に謁見した。
家茂は吉兵衛に対し小野浜近辺を日米修好通商条約に基づく開港場とすることの
是非について問い、吉兵衛は「この地は港に最適でございます」と回答した。
謁見を仲介した勝海舟は船蓼場を神戸海軍操練所に組み込んで活用し、
船蓼場の所有権を取り戻すことができるよう便宜を図ると約束したが、実現しなかった。
神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
 元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865)3月19日、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである
慶応3年(1867年)、兵庫港(現在の神戸港)開港に伴い、船蓼場(ふなたでば)は江戸幕府に
接収され東運上所(税関)の船入場として利用されることになった。
それに伴い10年以内に借金を返還すれば船蓼場を返還するという神戸村との
約束は消滅した。明治2年(1869年)9月5日、吉兵衛は死去した。
晩年は私財を投じて造った船蓼場が接収されたことを嘆き、死の間際も船蓼場の
ことを口にしていたという。」網屋吉兵衛について以前に書いた記事にリンクしておきます。 網屋吉兵衛の顕彰碑 on 2010-9-29 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
  上の写真は神戸市立博物館の田井玲子さんの著書「外国人居留地と神戸」Page22着色加工された神戸海軍操練所の平面図上の写真は明治18年(1885)に測量の2万分の1地形図に発掘現場(紫のサークル)を示したもの信号灯の位置が図示されています。出典:現地説明会資料
上の写真は昭和9年(1934)「最新神戸市街地図踏測」(神戸市立中央図書館蔵)の地図上に発掘現場の位置を入れ込みました。臨港線も描かれています。出典:大国正美編著「古地図で楽しむ神戸」(2018)Page130
発掘調査で確認された層群(第Ⅰ期から第Ⅳ期)

上の2枚の写真は現地説明会資料よりのコピー

上の写真は兵庫神戸実測三千分箇之縮図 明治5年(1872)で第1,2,3波止場の位置を入れた
明治4年(1871)2月に第2波止場(西運上所前)の改修工事が始まり同年10月に完成
改修後の姿で記載されています。出典: 出典:田井玲子著 神戸開港150年によせて「外国人居留地と神戸」(2013)Page33 上の写真は上記の地図の解説。
 出典:田井玲子著 神戸開港150年によせて「外国人居留地と神戸」(2013)Page33上の写真は第1~第4波止場の概略位置を示した略図です。明治5年(1872)頃の略図。
出典:市民のグラフ こうべ No.170 1986年12月 特集・みなとの120年(上)Page7

現地説明資料よりやや詳しい年譜を記載しておきます。Ⅰ期 開港(1868)以前元治元年(1864)5月 海軍操練所が開所元治2年(1865)3月12日(9日、18日の説もあり)に廃止慶応3年(1867)12月8日=新暦換算で1868年1月1日 神戸港開港上の写真は1968年3月28日号のイラストレイテッド ロンドン ニュースが
開港後、間もない神戸のイラストを掲載したものです。生田神社の馬場先の灯台が目立っています。上の写真は明石の灯台の変遷を図示したものです。出典:明石市立文化博物館企画展示、発掘された明石の歴史展「明石の港津」の冊子Page60より時期から判断して上の図の一番右側の明石港の旧波門崎燈籠堂と同じようなタイプと推定されます 
Ⅱ期 開港(1868)から第一波止場完成の明治10年(1877)
慶応4年(1868)2月 居留地京町筋の南東に東運上所と西運上所(国産波止場付近)開設
        4月 波止場規則が定められ東運上所前は第1波止場
           西運上所前を第2波止場と称せられるようになった。

        5月 波止場2箇所増設
           米国領事館前を第3波止場(後のメリケン波止場)、宇治川尻を
           第4波止場と称す
  明治への改元は9月8日なので慶応4年と表記しました。


明治4年(1871) 2月 兵庫県はイギリス人J.マーシャルを初代港長に任命
           マーシャルは港内の実測を行った
        3月 居留地の要請で生田川付け替え工事を着工
           (明治4年6月9日 新生田川竣工)
明治5年(1872)5月 神戸桟橋の建設開始上の写真は鉄道桟橋の建設に関する記述(写真付き)
出典:神戸駅130年史、JR西日本神戸支社 
明治9年(1876)6月 神戸桟橋が完成明治10年(1877)7月1日 神戸桟橋が開業
Ⅲ期 明治10年(1877)頃から明治33年(1900)頃明治17年(1884)11月~  神戸桟橋会社外国桟橋建設以降 
上の2枚の写真は明治29年(1896)1月の海図と説明パネル
湊川の付け替え工事は明治30年(1897)着工 明治34年(1901)竣工なので
この頃は湊川が旧流路で通っていた時代の海図です。神戸桟橋会社の鉄桟橋が描かれているのが判ります。
出典:2017-7-29海フェスタ神戸 海の総合展 第五管区海上保安部展示
Ⅳ期 明治40年(1907)から大正11年(1922)明治39年(1906)4月森垣亀一郎は神戸港の建設責任者となるべく大蔵省技師となり、明治40年(1907)6月には神戸港繋船岸壁工事主任となった。明治40年9月には神戸港第一期修築工事の起工式が小野浜の埋め立て地で行われ第1~第4突堤と東防波堤(1,149m)の建設が進められた。森垣亀一郎は日本で初めてのケーソン工法を神戸港で施工した。総工費:約1,509万円 所管:大蔵省&内務省
明治40年(1907)第1~4突堤造成工事開始大正4年(1915) 神戸桟橋会社の鉄桟橋が第1~4突堤造成に伴い廃止大正11年(1922)5月16日 第1~4突堤造成完成 上の写真は神戸桟橋会社の外国桟橋
明治中期の唯一の外国航路用の外国桟橋
出典:市民のグラフ こうべ No.95 1980年8月 特集・神戸港を築いた人々 Page10 

神戸桟橋会社は明治15年(1882)五代友厚の主唱によって鴻池善右衛門、住友吉左衛門、
藤田伝三郎らが発起人となって発足2年後に小野浜地区に木造桟橋を築造した。
しかし2,000トン以上の船舶は1隻しか繋留できない小規模なものであった。
関連の古写真、地図&模型
上の写真は明治中期の第一波止場の様子 瀬戸内海写真帖 神戸市立博物館所蔵出典:田井玲子さん著書「外国人居留地と神戸」(2013)Page47写真の右側の信号灯と小屋の建物及び周囲の木柵が参考になります。上の写真は明治35年(1902)頃の神戸港で東波止場、西波止場、メリケン波止場
などの名称が使用されています。東波止場=第一波止場
旧生田川の川尻の物揚げ場(明治32年ごろ築造)の護岸のため防波堤が2本建設
されていることも判ります。
出典:市民のグラフ こうべ No.170 1986年12月 特集・みなとの120年(上)Page13



上の2枚の写真は昭和初期の船入場(神戸市立博物館常設展示模型 撮影:2020年6月12日
上の写真は1870年 J.W.ハートが設計した神戸旧居留地地図の東南方向船入場付近が海軍操練所跡付近です。初代のイギリス領事館は旧海軍操練所の建物に開設されています。上の写真は神戸港長のJ.マーシャルが提案した築港案(明治6年10月)

明治7年(1874)3月 J.マーシャル立案の「神戸港則」成る

関連として明治15年期の地図も添付しておきます。赤丸が海軍操練所跡の周辺

発掘調査現場の住所発掘現場の住所は神戸市中央区新港町16番地でGoogleマップを添付最新の地図ではなく現在は高層マンションなどが建ちだいぶ変化しています。但しストリートビューでみると最近のものになっています。阪神高速道路株式会社管理本部神戸の建物の西側になります土地の所有者は神戸市です。
海軍操練所跡の碑
上の写真は海軍操練所跡の碑  撮影:2016-6-6神戸海軍操練所について現地の碑文から引用紹介します。

 万延元年〈1860)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸
〈300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果した
のである。日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
文久三年(1863)4月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。
当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港で
あることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。
勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.
その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の
人材が輩出したのである。
 元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の
嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに
至ったのである。 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を
望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路
の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない
 今はただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの
救いである。

詳細は下記ブログを参照してください。 旧神戸海軍操練所跡 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)  
現地説明会資料&撮影写真現地説明会資料及び当日撮った写真より今迄に記載していない事項について整理しました。

上の2枚の写真は北側防波堤の写真及び断面

上の写真は発掘現場全体の断面図第Ⅰ期は江戸時代(神戸港開港前)までの布積み(高さを揃え横目地を通して垂平に積み上げ)第Ⅱ期の防波堤石積み(布積状)第Ⅲ期以降は石を斜めに積み上げて強度を高めた「谷積み」の技法で築かれている上の写真は第Ⅰ期防波堤の検出状況 出典:現地説明会資料
上の写真は第Ⅰ期の防波堤(南側)が検出された場所(調査区南西部)この付近に栗石や粘土ブロックも検出されています
上の写真は第Ⅰ期の防波堤(南側)が検出された場所 調査区北東部上の写真は第Ⅰ期の防波堤(南側のみ)現地ではカラーコーンで設置ラインを表示出典:現地説明会資料
防波堤の石材に関する展示発掘調査現地説明会の会場内に表題の展示がありました。上の写真は御影石の切り出しに関する古資料の展示上の写真はAタイプの切り石 慶長・元和年間の時期に多く見られるタイプ上の写真はBタイプの切り石の展示

上の写真はCタイプの切り石の展示上の写真は屋穴列痕の展示(Cタイプの展示)上の2枚の写真は第Ⅳ期以降に建てられた建物などのの石の装飾部やレンガ積みの一部の展示昭和9年(1934)の地図には発掘現場には旅具検査所が建っていたことが判ります。
神戸港のあゆみ神戸市が神戸港開港150年を記念して下記資料を作成されていますのでリンク 00 (kobe.lg.jp) 私は下記ブログで神戸港のあゆみ(変遷)を簡略化して纏めています。 平成29年(2017)神戸港の貿易額 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp) 
関連ブログ  神戸海軍操練所 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp) 
 京橋北詰に移設された網屋吉兵衛顕彰碑 on 2020-9-16 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp) 
 神戸の旧車村、奥妙法寺村、高取山での石炭の採掘 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp) 
 海軍営之碑 in 諏訪山公園 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp) 
 海軍操練所顕彰碑 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp) 

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