幕末(安政7年(1860)3月3日)に彦根藩主の井伊直弼が薩摩藩、水戸藩などの浪士に暗殺された「桜田門外の変」のわだかまりを解消し交流を深めようと、鹿児島市と滋賀県彦根市が2025年1月16日、交流連携協定を結びました。彦根市で行われた協定締結式には彦根、鹿児島両市長の他、井伊家18代当主の井伊直岳 さんと島津家33代当主の島津忠裕さん の両当主も出席されました。過去を乗り越え、歴史的なつながりから新たな都市間交流が生まれる。 彦根市によると、有村国俊滋賀県議会議長が彦根市と鹿児島市に交流を提案。有村氏は桜田門外の変で直弼の首を持ち去ったと伝わる薩摩藩を脱藩した浪士有村次左衛門の弟の子孫に当たる。両市で昨年7月ごろから協議を進めた結果、協定を結ぶことになった。 彦根市は1968年に水戸市とも親善都市の提携を結んでいる。
締結式の様子はYoutube動画で紹介されておりGooで共有させていただきました。【速報】桜田門外の変で交流協定 滋賀・彦根市と鹿児島市
交流協定の関連サイト 「桜田門外の変」子孫集まり彦根市と鹿児島市が交流協定 滋賀|NHK 関西のニュース
「桜田門外の変」についてはBSTBSの関口宏の一番新しい江戸時代1月19日放送で解説されています。私はTverで視聴、番組のパネルなどを利用して「桜田門外の変」を簡単にレビューしていきます。Wikipedia(桜田門外の変)も参照し、一部、引用させていただきました。
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上の写真は安政7年(1860)3日3日。五ツ半刻(午前9時) 、江戸幕府・事実上のトップ井伊直弼が、水戸浪士たちによって殺害された場面。現場は江戸城の南、桜田門外。籠からひきずりおろされ薩摩藩浪士の有村次左衛門により斬首された井伊大老。安政7年3日3日は西暦換算では1860年3月24日
桜田門外の変の現場と状況
彦根藩邸から桜田門までは約400m、彦根藩・井伊大老の行列は総勢60人ばかりだった総勢60人の約半数は常用の家来ではなく日雇いの武士たちで彼らは水戸藩浪士17名と薩摩藩浪士1名の18名の襲撃を受けた際、すぐに逃亡してしまった。行列が外桜田門に近づくとまず森五六郎が直訴を装って行列の先頭に駆け寄りました。これは当時、このような直訴は駕籠訴(かごそ)と呼ばれ通常に行われていた。それを取り押さえようとした彦根藩士は即座に森に斬られてしまいます。周囲は騒然となり行列の先頭に注意が払われた瞬間、一発の銃声が鳴り響きました。これを合図に水戸浪士17名と薩摩藩浪士1名の計18名が駕籠の井伊大老を標的に襲撃します。彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていた。そのため、素早く抜刀する事が難しい状況にあり、とっさの迎撃に出難く、それは襲撃側に有利な状況だった。通説では1発の鉄砲の合図で駕籠を一斉に襲撃したことになっていますが、最新の研究では銃により井伊大老は即死したとの説が唱えられています。
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上の2枚の写真は井伊大老の行列が江戸城に入場するまでの状況を解説したパネル。
上の写真は井伊直弼が銃により襲撃されたことを描いた絵この絵は襲撃メンバーの蓮田市五郎により1860年に描かれたものです。これにより前述したように銃により井伊大老は即死したとの説が唱えられています。 ![]()
上の写真は銃により井伊大老は即死したとの説に関する詳しい解説パネル少なくとも3丁の拳銃が使用された可能性あり。根拠は襲撃メンバーの安達清一郎日記の記述。通説では1発の鉄砲の合図で駕籠を一斉に襲撃。
何故、桜田門外の変が起きたのか?![]()
孝明天皇が水戸藩に出した戌午の密勅が安政の大獄や桜田門外の変が起きる最大の原因であった。戊午の密勅(ぼごのみっちょく)とは、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に攘夷と幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜したことを言いこれが桜田門外の変の原因と言われる。「桜田門外の変」にまつわる謎![]()
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上の2枚の写真は「桜田門外の変」にまつわる謎に関するパネル
襲撃者18名の状況闘死1名、自刃4名、逃亡の後斬首11名、生存2名
彦根藩の被害状況襲撃により、藩主である直弼以外に8名が死亡。8名の内訳は即死者4名、重傷を負い数日中に死亡した者4名。他に5名が重軽傷を負った。
井伊直弼の首の行方は?![]()
上の写真は井伊直弼の首の行方は?を説明したパネル籠からひきずりおろされ薩摩藩浪士の有村治左衛門により斬首された井伊大老の首は有村次左衛門が若年寄の遠藤邸まで運んだ後、有村は自刃
有村次左衛門の辞世の句は 「岩が根もくだけざらめや武士の 国の為にと思ひきる太刀」
井伊直弼が死去後の幕府の行動![]()
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豪徳寺の井伊直弼の墓には命日が閏3月28日(3月3日から約2か月後)となっています。
井伊直弼の一生![]()
締結式の様子はYoutube動画で紹介されておりGooで共有させていただきました。【速報】桜田門外の変で交流協定 滋賀・彦根市と鹿児島市
交流協定の関連サイト 「桜田門外の変」子孫集まり彦根市と鹿児島市が交流協定 滋賀|NHK 関西のニュース
「桜田門外の変」についてはBSTBSの関口宏の一番新しい江戸時代1月19日放送で解説されています。私はTverで視聴、番組のパネルなどを利用して「桜田門外の変」を簡単にレビューしていきます。Wikipedia(桜田門外の変)も参照し、一部、引用させていただきました。

上の写真は安政7年(1860)3日3日。五ツ半刻(午前9時) 、江戸幕府・事実上のトップ井伊直弼が、水戸浪士たちによって殺害された場面。現場は江戸城の南、桜田門外。籠からひきずりおろされ薩摩藩浪士の有村次左衛門により斬首された井伊大老。安政7年3日3日は西暦換算では1860年3月24日
桜田門外の変の現場と状況



上の2枚の写真は井伊大老の行列が江戸城に入場するまでの状況を解説したパネル。


上の写真は銃により井伊大老は即死したとの説に関する詳しい解説パネル少なくとも3丁の拳銃が使用された可能性あり。根拠は襲撃メンバーの安達清一郎日記の記述。通説では1発の鉄砲の合図で駕籠を一斉に襲撃。
何故、桜田門外の変が起きたのか?

孝明天皇が水戸藩に出した戌午の密勅が安政の大獄や桜田門外の変が起きる最大の原因であった。戊午の密勅(ぼごのみっちょく)とは、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に攘夷と幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜したことを言いこれが桜田門外の変の原因と言われる。「桜田門外の変」にまつわる謎


上の2枚の写真は「桜田門外の変」にまつわる謎に関するパネル
襲撃者18名の状況闘死1名、自刃4名、逃亡の後斬首11名、生存2名
彦根藩の被害状況襲撃により、藩主である直弼以外に8名が死亡。8名の内訳は即死者4名、重傷を負い数日中に死亡した者4名。他に5名が重軽傷を負った。
井伊直弼の首の行方は?

上の写真は井伊直弼の首の行方は?を説明したパネル籠からひきずりおろされ薩摩藩浪士の有村治左衛門により斬首された井伊大老の首は有村次左衛門が若年寄の遠藤邸まで運んだ後、有村は自刃
有村次左衛門の辞世の句は 「岩が根もくだけざらめや武士の 国の為にと思ひきる太刀」
井伊直弼が死去後の幕府の行動


豪徳寺の井伊直弼の墓には命日が閏3月28日(3月3日から約2か月後)となっています。
井伊直弼の一生
