2017年1月9日、奈良明日香村の坂田寺跡を訪問しています。写真紹介します。
坂田寺跡の基本情報
所在地:奈良県高市郡明日香村坂田
創建:用明天皇2年(587) By 多須奈(鞍作止利の父)
諸説あり不明とのことですが現地説明板に記載されていたので記載
問い合わせ先:奈良国立文化財研究所、明日香村教育委員会
昭和47年(1972)にマラ石付近の1次発掘調査に始まり現在まで十数次の発掘調査
Googleマップへのリンク(坂田寺跡付近)
https://www.google.com/maps/@34.463175,135.824803,17z?hl=ja-JP
上の3枚の写真は坂田金剛寺跡と書かれた石碑と現地説明板
説明書きより内容を整理すると
(1)坂田寺は持統天皇の時代大官寺、飛鳥寺、川原寺、豊浦寺と共に飛鳥五大寺であった。
『日本書紀』朱鳥元年(686)に天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で行った記載あり
(2)用明天皇2年(587)鞍作止利の父の多須奈が用明天皇の病気回復を祈願し坂田寺を建立
(一説では止利が建立)
(3)坂田寺は鞍作氏の氏寺
(4)坂田寺は渡来人が建てた寺として最古の寺
(5)坂田寺は尼寺であった。
(6)発掘調査で仏堂と回廊が確認されているが飛鳥時代の伽藍配置は未解明
上の写真は現地説明板付近の平面部分
この部分は第3次発掘調査と第7次発掘調査が行われた場所で仏堂と回廊が検出
上の写真は坂田寺跡に建つ万葉歌碑と大意
「御食(みけ)向かふ 南淵山(みなふちやま)の 巌(いはほ)には
落りしはだれが 消え残りたる」
文献等から観た坂田寺の創建年
(1)日本書記 用明天皇2年(587)多須奈が
「約4.85メートルの仏像と寺を建てて奉った。坂田寺の木製の仏像とけふじの菩薩」
(2)日本書記 推古14年(606)鞍作鳥(止利)が天皇から田を二十町賜り、坂田寺の造営に充てた
(3)扶桑略記 継体16年(522)に渡来した司馬達止(多須奈の父)が高市郡坂田原に草堂を営む
坂田寺の歴史
創建時(6世紀~7世紀)の仏堂は瓦葺ではなく桧皮葺(奈良国立文化財研究所の7次調査で確認)
(1991)
『日本書紀』朱鳥元年(686)に天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で実施
7世紀前半に南北10m 東西6m以上の池が存在(奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
(1972)
7世紀後半 瓦出土 (奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
8世紀前半 建築物(SE070) (奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
8世紀後半 瓦堆積(SX020) (奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
坂田寺は10世紀後半に土砂崩れで伽藍は倒壊した(奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
鎌倉時代(1192-1333)になると、多武峰や興福寺の末寺化していく
多武峰略記には承安2年(1172)に多武峰の末寺になったことが記載(現在の金剛寺)
主な発掘物と遺構
飛鳥時代(571-710)の遺構
前述の池以外に遺構が見つかっていない
奈良時代(710-784)以降の遺構
主要な建物には金堂・講堂、回廊、基壇建物二棟
坂田寺の伽藍配置案については明日香村教育委員会作成の下記サイトに記載
http://www.asukamura.jp/chosa_hokoku/sakata/hokoku.html
石組溝や井戸なども検出
鏡・金箔・絹糸・銅銭・水晶玉などが出土
「坂田寺」「卍」「知識」「南」「金」「新」「成」「大」「和」と記された墨書土器
瓦では単弁蓮華文軒丸瓦(8葉)、忍冬唐草文軒平瓦などが出土
木製品では糸巻、琴柱、柄杓の柄
坂田寺跡の基本情報
所在地:奈良県高市郡明日香村坂田
創建:用明天皇2年(587) By 多須奈(鞍作止利の父)
諸説あり不明とのことですが現地説明板に記載されていたので記載
問い合わせ先:奈良国立文化財研究所、明日香村教育委員会
昭和47年(1972)にマラ石付近の1次発掘調査に始まり現在まで十数次の発掘調査
Googleマップへのリンク(坂田寺跡付近)
https://www.google.com/maps/@34.463175,135.824803,17z?hl=ja-JP
上の3枚の写真は坂田金剛寺跡と書かれた石碑と現地説明板
説明書きより内容を整理すると
(1)坂田寺は持統天皇の時代大官寺、飛鳥寺、川原寺、豊浦寺と共に飛鳥五大寺であった。
『日本書紀』朱鳥元年(686)に天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で行った記載あり
(2)用明天皇2年(587)鞍作止利の父の多須奈が用明天皇の病気回復を祈願し坂田寺を建立
(一説では止利が建立)
(3)坂田寺は鞍作氏の氏寺
(4)坂田寺は渡来人が建てた寺として最古の寺
(5)坂田寺は尼寺であった。
(6)発掘調査で仏堂と回廊が確認されているが飛鳥時代の伽藍配置は未解明
上の写真は現地説明板付近の平面部分
この部分は第3次発掘調査と第7次発掘調査が行われた場所で仏堂と回廊が検出
上の写真は坂田寺跡に建つ万葉歌碑と大意
「御食(みけ)向かふ 南淵山(みなふちやま)の 巌(いはほ)には
落りしはだれが 消え残りたる」
文献等から観た坂田寺の創建年
(1)日本書記 用明天皇2年(587)多須奈が
「約4.85メートルの仏像と寺を建てて奉った。坂田寺の木製の仏像とけふじの菩薩」
(2)日本書記 推古14年(606)鞍作鳥(止利)が天皇から田を二十町賜り、坂田寺の造営に充てた
(3)扶桑略記 継体16年(522)に渡来した司馬達止(多須奈の父)が高市郡坂田原に草堂を営む
坂田寺の歴史
創建時(6世紀~7世紀)の仏堂は瓦葺ではなく桧皮葺(奈良国立文化財研究所の7次調査で確認)
(1991)
『日本書紀』朱鳥元年(686)に天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で実施
7世紀前半に南北10m 東西6m以上の池が存在(奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
(1972)
7世紀後半 瓦出土 (奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
8世紀前半 建築物(SE070) (奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
8世紀後半 瓦堆積(SX020) (奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
坂田寺は10世紀後半に土砂崩れで伽藍は倒壊した(奈良国立文化財研究所の1次調査で確認)
鎌倉時代(1192-1333)になると、多武峰や興福寺の末寺化していく
多武峰略記には承安2年(1172)に多武峰の末寺になったことが記載(現在の金剛寺)
主な発掘物と遺構
飛鳥時代(571-710)の遺構
前述の池以外に遺構が見つかっていない
奈良時代(710-784)以降の遺構
主要な建物には金堂・講堂、回廊、基壇建物二棟
坂田寺の伽藍配置案については明日香村教育委員会作成の下記サイトに記載
http://www.asukamura.jp/chosa_hokoku/sakata/hokoku.html
石組溝や井戸なども検出
鏡・金箔・絹糸・銅銭・水晶玉などが出土
「坂田寺」「卍」「知識」「南」「金」「新」「成」「大」「和」と記された墨書土器
瓦では単弁蓮華文軒丸瓦(8葉)、忍冬唐草文軒平瓦などが出土
木製品では糸巻、琴柱、柄杓の柄