2017年7月1日、第一期オープンして間もないイオンスタイル神戸南を訪問した。
とにかく凄い人出である。
イオンスタイル神戸南のトイレの前に11箇所の兵庫津の歴史的遺産が紹介されていたので
写真撮影の許可を得て写真を撮りましたので紹介します。
イオンスタイル神戸南を展開するイオンモール株式会社は経営理念として地域とともに
「暮らしの未来」をつくる「Life Design Debeloper」を策定しており、その一環の
取り組みの一つである。
地域の名所・名産の情報の発信による兵庫運河周辺の活性化に繋がるものと想われます。
前置きはこれ位にして早速写真紹介していきます。
上の写真は兵庫津の歴史的遺産11選の場所を示したものである。
1.蛭子神社(柳原えびす神社)
上の写真が蛭子神社(柳原えびす神社)拝殿の写真と説明である。
説明にもあります様に毎年1月9日~11日に実施の「えべっさん」の時には大変な賑わいです。
2011年1月10日の訪問記にリンクしておきます。
http://seiyo39.exblog.jp/14984207/
柳原惣門に関する小生のブログへのリンク:
柳原惣門と湊口惣門
兵庫津の西の玄関口柳原惣門跡と東の玄関口湊口惣門跡
柳原蛭子神社の古い玉垣にはかって兵庫津の発展に尽くした人たちの名前を発見できます。
上の写真は柳原蛭子神社の玉垣で明治29年(1896)着工、明治32年(1899)完成の
兵庫運河の開削で功労のあった八尾善四郎の名前が見える。撮影:2014-5-24
上の写真は蛭子神社の遠景 撮影:2017-7-1
2.能福寺(兵庫大仏)
上の写真は能福寺(兵庫大仏)の写真と説明
説明に書かれているものを紹介していきます。
1)兵庫大仏
兵庫大仏は鎌倉の大仏、奈良の大仏とならんで日本の3大大仏の1つ
上の写真は2017-7-1撮影の兵庫大仏
2)平清盛公墓所 八棟寺殿 平相國廟
平安時代の末期治承5年(1181)平清盛公は63年の波乱の生涯を終えた。
平清盛の生涯で国守または国司になったのは4カ国(肥後、安芸、播磨、備前)で
他に大宰府大弐にも任ぜられている。
神戸での生活は仁安2年(1167)5月太政大臣を辞したときから死ぬ前の年の
治承4年(1180)まで13年間でこの間神戸(兵庫津)は政治の中心であった。
平清盛公の墓は治承5年(1181)に能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺殿に
平相國廟が造立されたと伝えられている。
上の写真は2017-7-1撮影の平清盛公墓所 八棟寺殿 平相國廟
3)瀧善三郎正信の慰霊碑
元は能福寺の東100mのところにあった永福寺に建立されたものである。
上の写真は瀧善三郎正信の慰霊碑
4)當勝稲荷堂
上の写真は2017-7-1撮影の當勝稲荷堂
3.清盛塚十三重塔・平清盛像
高さ約8.5メートルの十三重の石塔には「弘安9年(1286年)2月」の年号が
刻まれています。 もともとは現在より南西11メートルの場所にありましたが、
大正12年(1923)に旧神戸市電の道路拡張工事に伴い移転されました。
「清盛塚のことは、延宝8年(1680年)の「福原のびんかがみ」に北条貞時が建立したと
記されている。元禄5年(1692)の「兵庫寺社改帳」には清盛石塔の明細と、敷地十三間半に
36間半と記されてあり江戸時代初期より人口に伝承されていたことは明かである。」
清盛像(柳原義達の作)は昭和47年(1972)地元の清盛講の人たちの努力で
建立されました。
上の写真は清盛塚十三重塔・平清盛像の写真と説明
4.真光寺
上の写真は真光寺の写真と説明
上の写真は一遍上人の墓塔で1.95m高の2段積みで造立年代は
南北朝時代(1336-1392)頃と推定されています。
関連ブログ:神戸市兵庫区真光寺で一遍上人を偲び踊り念仏 on 2014-9-16
5.薬仙寺
後醍醐天皇に所縁のある寺で、後醍醐天皇が隠岐島から兵庫に着かれ、
付近の福厳寺逗留の折、ひどい頭痛になられたとき、薬仙寺の霊水を捧げると
頭痛が癒えたと言われています。
その後、後醍醐天皇から医王山の山号を与えられました。
現在も後醍醐天皇薬水薬師出現古跡湧水の碑があります。
他にも平清盛が後白河法皇を閉じこめたという萱御所跡の碑や
承元元年(1207)法然上人が讃岐に下るときにここに立ち寄り大衆を教化した。
文久元年(1861)兵庫港開港時にはイギリス初代公使オールコックの宿舎になる
など由緒のある寺院である。
最近では1945年3月17日の第2次世界大戦(15年戦争)戦災及び
1995年1月17日の阪神淡路大震災のモニュメントもあります。
上の写真は薬仙寺の写真と説明
6.新川キャナルプロムナード(兵庫運河)
上の写真は新川キャナルプロムナード(兵庫運河)の写真と説明
通常、船が兵庫の港に入るためには和田岬をまわらなければならなかった。
兵庫の和田岬付近では高い波が発生し、強い南風が吹く為、海難事故が多かった。
東西に大きな運河を掘れば、和田岬を回ることなく安全に兵庫津に入港することができる。
兵庫運河計画は明治7年の兵庫新川(出在家町から島上町の半円形の新川運河)
開設の時からあったが、実行できなかった。
上記の構想を実現させたのが魚問屋や内国貿易で成功した八尾善四郎である。
八尾善四郎は東京の安田善次郎の支援を得て神戸の武井守正、石井村の谷勘兵衛
飾東郡の近藤薫、西尻池町の藻川豊三郎らが出資し明治26年(1893)11月に
資本金35万円の兵庫運河会社を設立し事業を実施した。
明治29年(1896)1月30日に起工式。しかし、運河予定地の地主達からは
運河が耕作地を分断する上灌漑用井戸に塩水が混入するやも知れぬとの反対
(補償求める)や日清戦争後の地価高騰などにより土地の買収に困難を極めた。
しかも、運河口より100間ばかりのところが浅瀬であり、吃水の深い船が運河へ
近づくのは危険であり、そのため、運河を掘った土で浅瀬を埋め、島を作り
西南からの風波を防ぎ出入りの船の便宜を図りながらの工事で、大変な苦労をして
東尻池町から岬町を経て兵庫新川までを結ぶ大運河が完工したのが
明治31年(1898)4月のことである。
上記の島が現在の刈藻島である。
新川キャナルプロムナードは平成5年(1993)3月に神戸市が整備竣工したものです
関連ブログ:兵庫運河の歴史
兵庫運河建設に功績のあった八尾善四郎の像
7.兵庫城跡
上の写真は兵庫城跡の石碑の写真と説明
天正8年(1580)、池田信輝と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって
兵庫の地を与えられてからは、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、
東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の傘下に入った。
これを機会に池田氏は花隈城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
その地点は、現在中央市場が建つ中之島・切戸町である。
東西、南北ともに140mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。
元禄9年(1696)紺屋安右衛門(南仲町絵師) によって書かれた
摂州八部郡福原庄兵庫津絵図野中に御屋敷として堀に囲まれた図が残されています。
古来兵庫は1184年の源平合戦一の谷の戦い、1336年の湊川の合戦以降
たびたび大きな合戦が続き、そのつどひどい戦災を受けた。
兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。しかし信長・秀吉による全国統一
がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
兵庫城跡は江戸時代に入り元和3年(1617)、尼崎藩領となり、藩の陣屋となり、
明和6年(1769)、幕府 領となってからは、大坂町奉行所に所属して、
与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。
慶応4年5月23日(新暦換算1968年7月12日に1次兵庫県が成立この時初代の
県庁がこの地に置かれました。
関連ブログ:兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地 の石碑 in 新川運河キャナルブロムナード
8.兵庫津歴史館 岡方倶楽部
上の写真は兵庫津歴史館 岡方倶楽部の写真と説明
兵庫商人が自ら地域の社交場として昭和2年(1927)に建造されたモダンな石づくりの建造物で、
空襲・震災にも生き残った奇跡の建物と言われています。
昭和8年建設の御影公会堂より6年古い。建設当時のものが残っている貴重な文化財です。
2013年に兵庫津歴史館 岡方倶楽部として神戸市が管理することになりました。
2013-4-20に開設式が行われました。
関連ブログ:岡方惣会所跡の碑
9.高田屋嘉兵衛顕彰碑
上の写真は高田屋嘉兵衛の顕彰碑の写真と説明
関連ブログ:高田屋嘉兵衛顕彰碑と竹尾稲荷神社
高田屋嘉兵衛 本店の地の石碑 in 神戸市兵庫区西出町
高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠 in 鎮守稲荷神社
10.来迎寺(築島寺)
上の写真は来迎寺(築島寺)の写真と説明
関連ブログ:築島寺の昔の写真と図絵
来迎寺(築島寺) 訪問記 in 2011-2-21
11.西国街道(札場の辻跡)
上の写真は西国街道(札場の辻跡)の写真と説明
とにかく凄い人出である。
イオンスタイル神戸南のトイレの前に11箇所の兵庫津の歴史的遺産が紹介されていたので
写真撮影の許可を得て写真を撮りましたので紹介します。
イオンスタイル神戸南を展開するイオンモール株式会社は経営理念として地域とともに
「暮らしの未来」をつくる「Life Design Debeloper」を策定しており、その一環の
取り組みの一つである。
地域の名所・名産の情報の発信による兵庫運河周辺の活性化に繋がるものと想われます。
前置きはこれ位にして早速写真紹介していきます。
上の写真は兵庫津の歴史的遺産11選の場所を示したものである。
1.蛭子神社(柳原えびす神社)
上の写真が蛭子神社(柳原えびす神社)拝殿の写真と説明である。
説明にもあります様に毎年1月9日~11日に実施の「えべっさん」の時には大変な賑わいです。
2011年1月10日の訪問記にリンクしておきます。
http://seiyo39.exblog.jp/14984207/
柳原惣門に関する小生のブログへのリンク:
柳原惣門と湊口惣門
兵庫津の西の玄関口柳原惣門跡と東の玄関口湊口惣門跡
柳原蛭子神社の古い玉垣にはかって兵庫津の発展に尽くした人たちの名前を発見できます。
上の写真は柳原蛭子神社の玉垣で明治29年(1896)着工、明治32年(1899)完成の
兵庫運河の開削で功労のあった八尾善四郎の名前が見える。撮影:2014-5-24
上の写真は蛭子神社の遠景 撮影:2017-7-1
2.能福寺(兵庫大仏)
上の写真は能福寺(兵庫大仏)の写真と説明
説明に書かれているものを紹介していきます。
1)兵庫大仏
兵庫大仏は鎌倉の大仏、奈良の大仏とならんで日本の3大大仏の1つ
上の写真は2017-7-1撮影の兵庫大仏
2)平清盛公墓所 八棟寺殿 平相國廟
平安時代の末期治承5年(1181)平清盛公は63年の波乱の生涯を終えた。
平清盛の生涯で国守または国司になったのは4カ国(肥後、安芸、播磨、備前)で
他に大宰府大弐にも任ぜられている。
神戸での生活は仁安2年(1167)5月太政大臣を辞したときから死ぬ前の年の
治承4年(1180)まで13年間でこの間神戸(兵庫津)は政治の中心であった。
平清盛公の墓は治承5年(1181)に能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺殿に
平相國廟が造立されたと伝えられている。
上の写真は2017-7-1撮影の平清盛公墓所 八棟寺殿 平相國廟
3)瀧善三郎正信の慰霊碑
元は能福寺の東100mのところにあった永福寺に建立されたものである。
上の写真は瀧善三郎正信の慰霊碑
4)當勝稲荷堂
上の写真は2017-7-1撮影の當勝稲荷堂
3.清盛塚十三重塔・平清盛像
高さ約8.5メートルの十三重の石塔には「弘安9年(1286年)2月」の年号が
刻まれています。 もともとは現在より南西11メートルの場所にありましたが、
大正12年(1923)に旧神戸市電の道路拡張工事に伴い移転されました。
「清盛塚のことは、延宝8年(1680年)の「福原のびんかがみ」に北条貞時が建立したと
記されている。元禄5年(1692)の「兵庫寺社改帳」には清盛石塔の明細と、敷地十三間半に
36間半と記されてあり江戸時代初期より人口に伝承されていたことは明かである。」
清盛像(柳原義達の作)は昭和47年(1972)地元の清盛講の人たちの努力で
建立されました。
上の写真は清盛塚十三重塔・平清盛像の写真と説明
4.真光寺
上の写真は真光寺の写真と説明
上の写真は一遍上人の墓塔で1.95m高の2段積みで造立年代は
南北朝時代(1336-1392)頃と推定されています。
関連ブログ:神戸市兵庫区真光寺で一遍上人を偲び踊り念仏 on 2014-9-16
5.薬仙寺
後醍醐天皇に所縁のある寺で、後醍醐天皇が隠岐島から兵庫に着かれ、
付近の福厳寺逗留の折、ひどい頭痛になられたとき、薬仙寺の霊水を捧げると
頭痛が癒えたと言われています。
その後、後醍醐天皇から医王山の山号を与えられました。
現在も後醍醐天皇薬水薬師出現古跡湧水の碑があります。
他にも平清盛が後白河法皇を閉じこめたという萱御所跡の碑や
承元元年(1207)法然上人が讃岐に下るときにここに立ち寄り大衆を教化した。
文久元年(1861)兵庫港開港時にはイギリス初代公使オールコックの宿舎になる
など由緒のある寺院である。
最近では1945年3月17日の第2次世界大戦(15年戦争)戦災及び
1995年1月17日の阪神淡路大震災のモニュメントもあります。
上の写真は薬仙寺の写真と説明
6.新川キャナルプロムナード(兵庫運河)
上の写真は新川キャナルプロムナード(兵庫運河)の写真と説明
通常、船が兵庫の港に入るためには和田岬をまわらなければならなかった。
兵庫の和田岬付近では高い波が発生し、強い南風が吹く為、海難事故が多かった。
東西に大きな運河を掘れば、和田岬を回ることなく安全に兵庫津に入港することができる。
兵庫運河計画は明治7年の兵庫新川(出在家町から島上町の半円形の新川運河)
開設の時からあったが、実行できなかった。
上記の構想を実現させたのが魚問屋や内国貿易で成功した八尾善四郎である。
八尾善四郎は東京の安田善次郎の支援を得て神戸の武井守正、石井村の谷勘兵衛
飾東郡の近藤薫、西尻池町の藻川豊三郎らが出資し明治26年(1893)11月に
資本金35万円の兵庫運河会社を設立し事業を実施した。
明治29年(1896)1月30日に起工式。しかし、運河予定地の地主達からは
運河が耕作地を分断する上灌漑用井戸に塩水が混入するやも知れぬとの反対
(補償求める)や日清戦争後の地価高騰などにより土地の買収に困難を極めた。
しかも、運河口より100間ばかりのところが浅瀬であり、吃水の深い船が運河へ
近づくのは危険であり、そのため、運河を掘った土で浅瀬を埋め、島を作り
西南からの風波を防ぎ出入りの船の便宜を図りながらの工事で、大変な苦労をして
東尻池町から岬町を経て兵庫新川までを結ぶ大運河が完工したのが
明治31年(1898)4月のことである。
上記の島が現在の刈藻島である。
新川キャナルプロムナードは平成5年(1993)3月に神戸市が整備竣工したものです
関連ブログ:兵庫運河の歴史
兵庫運河建設に功績のあった八尾善四郎の像
7.兵庫城跡
上の写真は兵庫城跡の石碑の写真と説明
天正8年(1580)、池田信輝と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって
兵庫の地を与えられてからは、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、
東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の傘下に入った。
これを機会に池田氏は花隈城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
その地点は、現在中央市場が建つ中之島・切戸町である。
東西、南北ともに140mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。
元禄9年(1696)紺屋安右衛門(南仲町絵師) によって書かれた
摂州八部郡福原庄兵庫津絵図野中に御屋敷として堀に囲まれた図が残されています。
古来兵庫は1184年の源平合戦一の谷の戦い、1336年の湊川の合戦以降
たびたび大きな合戦が続き、そのつどひどい戦災を受けた。
兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。しかし信長・秀吉による全国統一
がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
兵庫城跡は江戸時代に入り元和3年(1617)、尼崎藩領となり、藩の陣屋となり、
明和6年(1769)、幕府 領となってからは、大坂町奉行所に所属して、
与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。
慶応4年5月23日(新暦換算1968年7月12日に1次兵庫県が成立この時初代の
県庁がこの地に置かれました。
関連ブログ:兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地 の石碑 in 新川運河キャナルブロムナード
8.兵庫津歴史館 岡方倶楽部
上の写真は兵庫津歴史館 岡方倶楽部の写真と説明
兵庫商人が自ら地域の社交場として昭和2年(1927)に建造されたモダンな石づくりの建造物で、
空襲・震災にも生き残った奇跡の建物と言われています。
昭和8年建設の御影公会堂より6年古い。建設当時のものが残っている貴重な文化財です。
2013年に兵庫津歴史館 岡方倶楽部として神戸市が管理することになりました。
2013-4-20に開設式が行われました。
関連ブログ:岡方惣会所跡の碑
9.高田屋嘉兵衛顕彰碑
上の写真は高田屋嘉兵衛の顕彰碑の写真と説明
関連ブログ:高田屋嘉兵衛顕彰碑と竹尾稲荷神社
高田屋嘉兵衛 本店の地の石碑 in 神戸市兵庫区西出町
高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠 in 鎮守稲荷神社
10.来迎寺(築島寺)
上の写真は来迎寺(築島寺)の写真と説明
関連ブログ:築島寺の昔の写真と図絵
来迎寺(築島寺) 訪問記 in 2011-2-21
11.西国街道(札場の辻跡)
上の写真は西国街道(札場の辻跡)の写真と説明