阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第5回目です。
今回は藤井竹外邸跡をお送りします。
これまでの散策記
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像
藤井竹外邸跡はカトリック高槻教会の南側、高槻現代劇場文化ホールとの間に
あります。住所:高槻市野見町2-33
上の写真は藤井竹外邸跡の石碑と説明板。
説明版には下記の内容が書かれています。
幕末の漢詩人の藤井竹外は文化4年4月20日(1807年5月27日)、高槻藩士
藤井沢右衛門の長男として生まれた。
竹外は藩の教育機関である青莪堂(せいがどう)=九代藩主永井直進により設立
で学び鉄砲術をはじめ武芸にも励んだといわれる。また、文武両道の素養を備え
青年期から頼山陽を師と仰ぎ詩作に傾倒した。旅を好み、酒をくんでは詩作に没頭
し、七言絶句を得意としたため、「絶句の竹外」と呼ばれたという。
嘉永7年(1854)刊行の「竹外二十八字詩」(前編)には、215首の詩が
収められており、中でも「花朝下澱江」「花井」「芳野」などは彼の代表作として
知られている。
慶応2年(1866)、60歳で世を去ったが、門下の高階春帆や市村水香らが
明治時代に「竹外吟社」を結成、竹外の作風の継承と発展に努めた。
竹外の墓は乾性寺(天神町二)にあり、旧城下の本行寺(大手町)にも、自然石
に刻まれた「竹外先生之墓」がある。この地は北大手門内の藤井竹外邸であり、
詩碑は昭和52年(1977)10月に生誕170年を記念して建てられたものである
高槻市教育委員会
藤井竹外の略年譜を添付しておきます。
1807(文化4) 生誕
1825(文政8) 19歳 小姓として高槻城鶴之間番役
1829(文政12) 23歳 福井斉(せい)と結婚
( 鉄砲名手と言われる。)
1832(天保3) 26歳 頼山陽 大塩平八郎訪問途次竹外宅訪問
1836(天保7) 30歳 息子又一誕生
1845(弘化2) 38歳 『竹外亭百絶』刊行
1848(嘉永元) 42歳 江戸勤番終え帰郷
1854(嘉永7) 48歳 『竹外二十八字詩』刊行
1861(万延2) 55歳 隠居
1862(文久2) 56歳 京都三本木へ移る
(頼山陽旧居・梁川星巌旧宅に近く)
1866(慶應2) 60歳 病没
(高槻北山乾性寺に葬られる、のち高槻本行寺移築。)
竹外二十八字詩評釈より「花朝下澱江」の漢詩を紹介します。
桃花水暖江
背指弧鴻欲没頭
雪白比良山一角
春風楢未到江州
[大意:春の淀川を下り
背をふり返り一羽の鳳がいる方向をみれば
雪白い比良山の一角
まだ春風も届いてはいないようだ]
今回は藤井竹外邸跡をお送りします。
これまでの散策記
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像
藤井竹外邸跡はカトリック高槻教会の南側、高槻現代劇場文化ホールとの間に
あります。住所:高槻市野見町2-33
上の写真は藤井竹外邸跡の石碑と説明板。
説明版には下記の内容が書かれています。
幕末の漢詩人の藤井竹外は文化4年4月20日(1807年5月27日)、高槻藩士
藤井沢右衛門の長男として生まれた。
竹外は藩の教育機関である青莪堂(せいがどう)=九代藩主永井直進により設立
で学び鉄砲術をはじめ武芸にも励んだといわれる。また、文武両道の素養を備え
青年期から頼山陽を師と仰ぎ詩作に傾倒した。旅を好み、酒をくんでは詩作に没頭
し、七言絶句を得意としたため、「絶句の竹外」と呼ばれたという。
嘉永7年(1854)刊行の「竹外二十八字詩」(前編)には、215首の詩が
収められており、中でも「花朝下澱江」「花井」「芳野」などは彼の代表作として
知られている。
慶応2年(1866)、60歳で世を去ったが、門下の高階春帆や市村水香らが
明治時代に「竹外吟社」を結成、竹外の作風の継承と発展に努めた。
竹外の墓は乾性寺(天神町二)にあり、旧城下の本行寺(大手町)にも、自然石
に刻まれた「竹外先生之墓」がある。この地は北大手門内の藤井竹外邸であり、
詩碑は昭和52年(1977)10月に生誕170年を記念して建てられたものである
高槻市教育委員会
藤井竹外の略年譜を添付しておきます。
1807(文化4) 生誕
1825(文政8) 19歳 小姓として高槻城鶴之間番役
1829(文政12) 23歳 福井斉(せい)と結婚
( 鉄砲名手と言われる。)
1832(天保3) 26歳 頼山陽 大塩平八郎訪問途次竹外宅訪問
1836(天保7) 30歳 息子又一誕生
1845(弘化2) 38歳 『竹外亭百絶』刊行
1848(嘉永元) 42歳 江戸勤番終え帰郷
1854(嘉永7) 48歳 『竹外二十八字詩』刊行
1861(万延2) 55歳 隠居
1862(文久2) 56歳 京都三本木へ移る
(頼山陽旧居・梁川星巌旧宅に近く)
1866(慶應2) 60歳 病没
(高槻北山乾性寺に葬られる、のち高槻本行寺移築。)
竹外二十八字詩評釈より「花朝下澱江」の漢詩を紹介します。
桃花水暖江
背指弧鴻欲没頭
雪白比良山一角
春風楢未到江州
[大意:春の淀川を下り
背をふり返り一羽の鳳がいる方向をみれば
雪白い比良山の一角
まだ春風も届いてはいないようだ]