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敦盛塚 on 2018-3-28

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2018年3月28日、桜が見頃になった敦盛塚の写真を撮ってきましたので
紹介します。



上の写真は敦盛塚石造五輪塔である。2018-3-28撮影
左手の桜が春らしい景色を演出しています。

敦盛塚の材質は六甲山系で多く産出される花崗岩です。

神戸市教育委員会の説明板より説明書きを以下に引用する。

神戸市指定有形文化財 敦盛塚五輪塔
○総高:397cm
○製作年代:室町時代末期~桃山時代
○指定年月日:平成9年10月23日

 この五輪塔は花崗岩製の総高4m近い堂々たるもので、中世の五輪塔としては
石清水(いわしみず)八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で第2位の規模を誇る。
法量は総高397cm、2石から成る地輪(ちりん)は幅126cm、高さ98.5cm、
水輪(すいりん)は、最大径130.4cm、高さ99cmで下部がすぼまり、火輪(かりん)
は軒幅126.4×119cm、高さ75.8cm(上部に径30cm、深さ20cmの柄穴
(ほぞあな))、風(ふう)、空輪(くうりん)は一石彫成で、風輪の径73cm、
高さ56cm、空輪最大径69cm、高さ72.9cm、各輪四方にそれぞれ五輪塔四門の
梵字(ぼんじ)を薬研(やげん)彫りに配している。紀年銘はなく、梵字が大きいことや
水輪火輪の様式にやや古調がみられるが、風、空輪は明らかに近世塔やの先駆的様式を
示していることから、室町時代末期から桃山時代にかけての製作と思われる。
 この付近は源平一の谷合戦場として知られ、寿永3年(1184)2月7日に、
当時16才の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を
建立したという伝承から、"敦盛塚"と呼ばれるようになった。このほか、鎌倉幕府の執権
北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278~1288)に造立したなどの
諸説がある。
 昭和60年(1985)4月に、神戸市教育委員会が周辺整備のための発掘調査を行った
ところ、下半分が埋没した地輪の下に、四角に囲った板石とその中に2枚の石から成る
基壇遺構があることが分かった。このため、基壇の上部を地表に現し、地輪部以上を完全に
露出するように積み直した。
平成11年3月    神戸市教育委員会

Five storied stupa  Atsumorizuka
Five storied stupa is a tombstone consist of five different parts.
From the bottom ,the scquare part symbolises earth, the circular part,
wind and the flaming shape part, air.
In buddhism it indicates five elements which exist in the material world.
This stupa is made of granite with 3.97m height.
It is the second largest scale,that of next to Iwashimizu-Hachimangu
(in Kyoto)in medieval period(16th century)by the type of dyone stupa.
This area is well known as the battlefield of Ichinotani between Gengi
clan and Heike clan in 12th century.
It is said this stupa was dedicated to TAIRANO Atsumori,young knight of
Heike who was killed by KUMAGAI Naozane in 1184 at age 16.
March 1999 Kobe City Board of Education


上の写真は敦盛塚の五輪塔の各部名称です。


上の写真は敦盛塚の傍にある草野藤次先生の歌碑

歌碑には下記のように歌が刻まれています。

須磨のうら 波の音
あはれ吹きたへし
葉の笛の
昔おもへば 藤次

この歌は大阪朝日新聞懸賞で当選したもので、
歌碑に字は草野藤次先生の直筆だそうです。

草野藤次先生は神戸市中央区の開業医だったそうです。


敦盛塚には松瀬青々先生の歌碑もあります。(上の写真)

「雨中 敦盛そばへ去りし夜客や後の月」

昭和44年10月26日神戸漁火会により建立されました。
松瀬青々先生は関西の高浜虚子とも言われた有名な俳人である。
松瀬青々は大正11年8月から11月まで西須磨23の平井隼之助氏の西隣に仮寓されて
おりこの句はその時の作である。
尚、そばは塚として松瀬青々先生が主宰した倦鳥誌に掲載されている。
松瀬青々は本名を弥三郎、明治2年(1869)5月15日大阪船場の薪炭商加賀屋の長男
として生まれた。
北浜上等小学校を卒業後、丁稚奉公や呉服行商をしたが、そののち、第一銀行大阪支店
に入社した。第一銀行では荒木井蛙、渡邊葉齋らと俳句をつくる活動をしていた。
蓼生園中村良顯に和歌を学ぶ。
幼少のときから漢詩、詩歌を学び、俳句を新聞や「ホトトギス」なとに投句していた。
28歳の頃から俳句を学び「ホトトギス」に投句したのがきっかけで子規と会い、
勤めていた第一銀行を辞めて明治32年(1899)上京し「ホトトギス」の編集にあたった。
明治33年(1900)に帰阪後は朝日新聞社に入社。大阪朝日新聞社の会計部に勤めながら、
朝日俳壇の選句を担当、東の子規、西の青々と言われ大阪に活況をもたらした。
明治34年(1901)「宝船」(のちに「倦鳥」と改題)を創刊し、没年までこれを主宰した。
明治39年の年の瀬に、生地の大川町(中央区の北浜4丁目)から八坂神社の近くに
(現在の住所で大阪市福島区海老江4-10-17)移り大正10年まで住んでいた。
さらに没年まで大阪周辺に住み青木月斗(明治32年に車百合を創刊し、からたちを主宰した)
や山茶花を主宰した野村泊月雑と並び大阪俳壇の基礎をきづいた。

また、句集「松苗」「妻木」「鳥の巣」などを発刊した。昭和12年(1937)1月9日没。

松瀬青々の俳句には
「はすのあめおぐらひとつにいきおそし」 宇治の小椋池での蓮見学の様子を詠む。
「甘干に軒も余さず詩仙堂」
のように固有名詞(地名など)を使用されている句が多い。


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