阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第10回目(最終回)です。
今回は理安寺をお送りします。
ようやく最終回にまでたどり着きました。
これまでの散策記
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その5 藤井竹外邸跡
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その6 野見神社
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その7 カトリック高槻教会
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その8 常地山 本行寺
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その9 光松寺
理安寺の基本情報
住所:高槻市京口町1-1-8 TEL:072-675-1379
宗派:浄土宗 山院号:起行山総智院
御本尊:阿弥陀如来
創建:時期は不詳 光譽承認
上の2枚の写真は道路側から観た理安寺の外観です。
高槻市の観光情報による理安寺の解説を引用させていただきます。
「高槻城の鬼門に当たる位置にある寺町。その中に理安寺はある。元和5年(1619年)、時の高槻城主・松平家信が夫人の菩提を弔って以来、松平氏の菩提寺として繁栄した。古くは「利生安国」から利安寺と称していた。」
上の写真は理安寺の本堂。 本堂には起行山の扁額がかかっていました。
上の写真は高槻市教育委員会が作製した説明版。
Wikipediaより理安寺に関する説明を引用させていただきます。
「創建年月は不詳だが、光誉上人が創建したといわれている。元和5年(1619年)に高槻城主となった松平家信が先婦人の菩提を弔って、理安寺を再興させた。それ以降、松平家の崇高が厚く、松平家の菩提寺として繁栄した。家信の次男で後に高槻藩主となった康信のときには、寺領や鐘楼などの寄進を受け、大いに栄えたという。古くは「利生安国」から字を取って、利安寺と称していた。
墓地には、江戸時代末期の儒学者で、漢詩人・藤井竹外と親交の厚かった市村甘泉の墓が建っている。」
上の写真は鐘楼。
上の写真は地蔵堂。
上の写真は南無阿弥陀仏と書かれた石碑。
上の写真は理安寺の由緒について35世住職が石碑に刻んだものです。
内容を要約すると「理安寺は旧名緫安寺と言っていた。元和5年(1619年)に高槻城に入城した松平家信が先婦人の菩提を弔い寺を再興したこと寛永19年(1642)後妻が死去した時に理安寺と改称した」と石碑に刻まれています。
上の写真は理安寺の歴代住職の墓碑。
上の写真は理安寺の前(南面)の道路を挟んだ街並み。
今回は理安寺をお送りします。
ようやく最終回にまでたどり着きました。
これまでの散策記
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その5 藤井竹外邸跡
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その6 野見神社
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その7 カトリック高槻教会
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その8 常地山 本行寺
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その9 光松寺
理安寺の基本情報
住所:高槻市京口町1-1-8 TEL:072-675-1379
宗派:浄土宗 山院号:起行山総智院
御本尊:阿弥陀如来
創建:時期は不詳 光譽承認
上の2枚の写真は道路側から観た理安寺の外観です。
高槻市の観光情報による理安寺の解説を引用させていただきます。
「高槻城の鬼門に当たる位置にある寺町。その中に理安寺はある。元和5年(1619年)、時の高槻城主・松平家信が夫人の菩提を弔って以来、松平氏の菩提寺として繁栄した。古くは「利生安国」から利安寺と称していた。」
上の写真は理安寺の本堂。 本堂には起行山の扁額がかかっていました。
上の写真は高槻市教育委員会が作製した説明版。
Wikipediaより理安寺に関する説明を引用させていただきます。
「創建年月は不詳だが、光誉上人が創建したといわれている。元和5年(1619年)に高槻城主となった松平家信が先婦人の菩提を弔って、理安寺を再興させた。それ以降、松平家の崇高が厚く、松平家の菩提寺として繁栄した。家信の次男で後に高槻藩主となった康信のときには、寺領や鐘楼などの寄進を受け、大いに栄えたという。古くは「利生安国」から字を取って、利安寺と称していた。
墓地には、江戸時代末期の儒学者で、漢詩人・藤井竹外と親交の厚かった市村甘泉の墓が建っている。」
上の写真は鐘楼。
上の写真は地蔵堂。
上の写真は南無阿弥陀仏と書かれた石碑。
上の写真は理安寺の由緒について35世住職が石碑に刻んだものです。
内容を要約すると「理安寺は旧名緫安寺と言っていた。元和5年(1619年)に高槻城に入城した松平家信が先婦人の菩提を弔い寺を再興したこと寛永19年(1642)後妻が死去した時に理安寺と改称した」と石碑に刻まれています。
上の写真は理安寺の歴代住職の墓碑。
上の写真は理安寺の前(南面)の道路を挟んだ街並み。