Quantcast
Channel: CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3915

明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その1 大蔵院

$
0
0
2018年4月29日、明石市大蔵谷を散策しました。このシリーズの第1回として
大蔵院をテーマに書いていきます。

大蔵院の基本情報

住所:明石市大蔵本町18−40  TEL:078-911-2131
宗派:臨済宗 南禅寺派  御本尊:定朝作の観世音菩薩 山号:見江山
創建:応安3年(1370) 禅宗の僧 中巌円月と赤松祐尚(すけなお)が創建

見どころ:赤松祐尚夫妻の墓








上の4枚の写真は本殿、方丈など大蔵院の主要な建物
前庭は良く整備されています。


上の写真は鐘楼


上の写真は境内の無縁仏


境内の石造群(由緒は未調査) 観音霊場的なものか?




上の2枚の写真は山陽道からの入口の山門の遠景と近景


上の写真は現地説明板

読みずらいので再掲します。
一、嘉吉元年(一四四一)赤松円心の孫、祐尚は大蔵谷に陣を構えた。居城を三木城に
  移すにあたり、陣屋の跡を寺院にしたと言われる。

一、伝定朝作の観音菩薩を本尊とし、境内の祠には青面金剛の石仏が祀られている。

一、墓地に赤松祐尚夫妻の墓があり夫妻の法号の「見江院」「大蔵院」が
  山号と寺名についている。

平成一二年九月
明石市教育委員会

赤松氏の系図をみると赤松祐尚は赤松則村(円心)の曾孫か?


上の写真は現地説明板の青面金剛の石仏が祀られている祠だと思います




上の2枚の写真は赤松祐尚(?-1441)夫妻の墓の全体と法号が書かれた石碑の拡大
赤松祐尚は英賀城主 足利義教近習

嘉吉元年(1441)6月24日播磨、備前、美作3国の守護赤松満祐(あかまつ みつすけ)
は京都の私邸(京都西洞院二条)で室町幕府6代将軍足利義教公を殺害します。
さらに将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城に帰ります。そこから
足利ゆかりの安国寺(加東市東条町)で盛大な法要を営んで葬ったと伝えられています。
この事件を嘉吉の乱と呼び「嘉吉物語」や「嘉吉太平記」に詳しく書かれています。
足利義教の首級は7月1日、季瓊真蘂が赤松満祐に会い、義教の首の返還を求めた。
赤松満祐は快く首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、7月6日に等持院で
義教の葬儀が行われた。
室町幕府側の管領細川持之の要請で嘉吉の乱から2か月後に朝廷から赤松追討の綸言を得て
幕府軍として赤松勢と明石、塩屋で合戦し、小勢の赤松軍は敗れました。明石での合戦では
赤松満祐の弟の赤松祐尚が大蔵谷に陣を構え幕府軍と戦いました。赤松祐尚は中巌和尚を
敬慕していましたので、居城を三木に移すにあたり、陣屋の跡を寺院にしたと言います。
墓地には赤松祐尚夫妻の墓があり、夫婦の法号の「見江院」「大蔵院」が山号と寺名に
なっています。これが大蔵院のはじまりです。

赤松満祐は本拠地赤松村に帰り、城山城で戦ったが敗れて満祐は自害、子の教康も
逃げる途中で自害した。赤松満祐が将軍として擁立した足利義尊も殺されました。
この乱(嘉吉の乱)で播磨、備前、美作3国は没収され赤松氏の嫡流家は滅亡した。


上の写真は赤松氏の系図
出典:兵庫県立考古博物館 特別展 動乱 播磨 中世
    -赤松円心から黒田官兵衛まで-の図録(2013)に加筆


上の写真は境内の鬼瓦


上の写真は境内の祠

江戸時代に入り大蔵院は慶長7年(1602)に姫路城主の池田輝政から寺屋敷と周囲の竹林
を寄進され、それ以降、代々の領主から厚い待遇を受けています。幕末の文久3年(1963)
には明石藩主松平慶憲(よしのり)に攘夷勅書を伝達するために、監察使の四條隆謌
(たかうた)が明石に来て、大蔵院に宿泊しています。

四條隆謌:文政11年9月9日(1828年10月17日)-明治31年(1898年)11月24日
Wikipediaよりそのまま引用

幕末期は攘夷派公卿として幕府に建言していたが、八月十八日の政変によって失脚し
一時官位を剥奪された(七卿落ち)。1867年(慶応3年)12月の王政復古で討幕派が
朝廷の実権を握ると京に戻って官位を復され、戊辰戦争では中国四国追討総督・
大総督宮参謀・仙台追討総督・奥羽追討平潟口総督などを務め、1869年(明治2年)6月、
維新の功績により永世禄300石を与えられ、同年7月に陸軍少将に任ぜられる。
1872年(明治5年)1月には大阪鎮台司令長官に就任、1874年(明治7年)4月に
名古屋鎮台司令長官に移るが、1877年(明治10年)5月には大阪鎮台司令長官を兼ねた
(同年10月に兼職を免ぜられる)。1880年(明治13年)の仙台鎮台司令長官を経た後、
1881年(明治14年)2月に陸軍中将に昇り元老院議官に就任する。
1884年(明治17年)7月に伯爵、1891年(明治24年)4月に侯爵に昇爵し貴族院議員となる。
1893年(明治26年)12月、予備役。1898年(明治31年)11月薨去。



Viewing all articles
Browse latest Browse all 3915

Trending Articles