2018年6月17日、神戸電鉄を利用して三田へ出かけていました。
城下町 三田の街めぐりと題して過去3回、下記の記事を書いています。
過去の記事へリンク
第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社
第2回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その2 天神公園の石碑と眺望
第3回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その3 金心寺
シリーズ4回目として「三田城跡」への訪問記を取り上げました。
上の6枚の写真は三田小学校の正門前の遠景とそこにある三田城跡の石碑、三田城の古地図
と説明板、さらに最後の13代城主九鬼隆義に関する説明パネルです。
正確な表現をすると三田陣屋跡である。
三田藩九鬼家の初代九鬼久隆が志摩から三田に移封されてきた時、3万6千石の石高
ながら城主格が与えられていなかったので、それまでの城は廃城となり、新たに
三田小学校の敷地に三田陣屋が建立された。
陣屋の規模は東西160m、南北80mで大手にあたる七燿橋を渡ると表御門で、玄関、書院
居間、奥方、台所などが完備されていたそうです。
上の2枚の写真は県立有馬高等学校と三田小学校との間にある道沿いの濠と三田城跡の説明板。
寛永10年(1633)九鬼水軍で名が通っている九鬼久隆が志摩国の鳥羽城から三田城に
3万6千石で替わってきた。明治維新まで約260年続いた九鬼時代の始まりである。
有馬高校のある地は古城(車瀬城)と呼ばれる車瀬城の名の由来には武庫川の瀬に面した
車瀬という地名によるとする説と山崎堅家が三田城主になった際、家臣の車瀬政右衛門
によってこの城の縄張りをさせたことによるという説がある。
上の写真は三田藩九鬼家13代で三田城の城主であった人物名です。
出典:三田ふるさと学習館の説明パネル
上の写真は心月院の三田藩歴代城主の墓所です。12代城主の九鬼精隆まで
上の写真は心月院の三田藩13代城主 九鬼隆義の墓
上の2枚の写真は古城濠と七曜橋と書かれた濠にかかる橋です。
こちらが昔の大手筋であると思われます。
上の2枚の写真は有馬高校校地の歴史と周辺の古地図と表した掲示です。
上の写真は三田城を中心とした模型
出典:三田ふるさと学習館の展示
上の写真は三田御池の対岸から観た三田小学校、有馬高校方面遠景
城下町 三田の街めぐりと題して過去3回、下記の記事を書いています。
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第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社
第2回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その2 天神公園の石碑と眺望
第3回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その3 金心寺
シリーズ4回目として「三田城跡」への訪問記を取り上げました。
上の6枚の写真は三田小学校の正門前の遠景とそこにある三田城跡の石碑、三田城の古地図
と説明板、さらに最後の13代城主九鬼隆義に関する説明パネルです。
正確な表現をすると三田陣屋跡である。
三田藩九鬼家の初代九鬼久隆が志摩から三田に移封されてきた時、3万6千石の石高
ながら城主格が与えられていなかったので、それまでの城は廃城となり、新たに
三田小学校の敷地に三田陣屋が建立された。
陣屋の規模は東西160m、南北80mで大手にあたる七燿橋を渡ると表御門で、玄関、書院
居間、奥方、台所などが完備されていたそうです。
上の2枚の写真は県立有馬高等学校と三田小学校との間にある道沿いの濠と三田城跡の説明板。
寛永10年(1633)九鬼水軍で名が通っている九鬼久隆が志摩国の鳥羽城から三田城に
3万6千石で替わってきた。明治維新まで約260年続いた九鬼時代の始まりである。
有馬高校のある地は古城(車瀬城)と呼ばれる車瀬城の名の由来には武庫川の瀬に面した
車瀬という地名によるとする説と山崎堅家が三田城主になった際、家臣の車瀬政右衛門
によってこの城の縄張りをさせたことによるという説がある。
上の写真は三田藩九鬼家13代で三田城の城主であった人物名です。
出典:三田ふるさと学習館の説明パネル
上の写真は心月院の三田藩歴代城主の墓所です。12代城主の九鬼精隆まで
上の写真は心月院の三田藩13代城主 九鬼隆義の墓
上の2枚の写真は古城濠と七曜橋と書かれた濠にかかる橋です。
こちらが昔の大手筋であると思われます。
上の2枚の写真は有馬高校校地の歴史と周辺の古地図と表した掲示です。
上の写真は三田城を中心とした模型
出典:三田ふるさと学習館の展示
上の写真は三田御池の対岸から観た三田小学校、有馬高校方面遠景