2018年6月17日、神戸電鉄を利用して三田へ出かけていました。
城下町 三田の街めぐりと題して過去4回、下記の記事を書いています。
過去の記事へリンク
第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社
第2回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その2 天神公園の石碑と眺望
第3回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その3 金心寺
第4回 三田の街めぐり on 2018-6-17 その4 三田城跡
シリーズ5回目として「元良 勇次郎 顕彰碑」への訪問記を取り上げました。
上の写真は三田市古城浄水場への登り口すぐの濠の脇に建立された「元良 勇次郎 顕彰碑」
日本最初の心理学者として有名な元良 勇次郎についてWikipediaを中心としてまとめた。
元良 勇次郎(もとら ゆうじろう)(1858-1912)は安政5年11月1日(1858年12月5日)
三田藩で藩校「造士館」儒学者、杉田泰(ゆたか)の次男として生まれ少年期には漢学を
学んだ。明治維新による開国後は洋学に強い関心を抱き、川本幸民・清一父子に学び
さらに神戸のアメリカ人宣教師J.D.Davis宅に住み込みながら英語と洋学の指導を受け
明治7年(1874)16歳で洗礼を受けキリスト教徒となった。この時代にJ・D・デービスが
蔵書していたW. B. カーペンター(英語版)『精神生理学の原理』(Carpenter 1874)に感化
明治8年(1875)には新島襄が創設した同志社英学校に第一期生として入学。
同期には徳富猪一郎(蘇峰)や中島力造(のちの東大倫理学の教授)上野栄三郎らがいる。
同志社英学校では当時としてはめずらしい性理学(現在の心理学)の授業が行なわれており、
ここでの心理学との出会いが彼の一生を決定付けた。
明治12年(1879)春、津田仙から学農社農学校の教員に招かれ同支社を退学。
その後、東京英和学校(青山学院の前身)の設立にも参画する。
明治14年(1881)元良家の養子となる
明治16年(1883)渡米しボストン大学の哲学科に入学するものの、教授の
ボーデン・パーカー・ボウン(1847年-1910年)の保守的なキリスト教哲学と進化論を
めぐって対立してしまい後に依願退学する
明治18年(1885)ジョンズ・ホプキンス大学の生物学教室に転向する。
ジョン・デューイの講義を受ける。倫理学等も含めて学び、スタンレー・ホールの
もとで心理学を学び実験心理学の実験方法を体得した。ジョンズ・ホプキンス大学で
Ph.Dの学位を修める。研究成果はホールと元良の共著「圧の漸次変化と皮膚の感受性」
というタイトルで「アメリカ心理学雑誌」第1巻に掲載。
(ただし心理学専攻ではなく哲学専攻で学位を取得したらしいことが最新の調査で
明らかになりつつある)
明治21年(1888)日本へ帰国し、東京英和学校の教員を務めた。
また帝国大学文科大学にて精神物理学の講義を担当する。
明治22年(1889)外山正一(元東大総長)、神田乃武(元一橋大教授)と共に、
正則予備校設立。後に正則高等学校となり現在に至る。
明治23年(1890)帝国大学文科大学教授に就任する。
明治26年(1893)心理学・倫理学・論理学第一講座担当となる
(後に第2講座を中島力造が担当した)。
明治27年(1894)高等師範学校(現、筑波大学)において心理学を講じる教授を兼任。
明治36年(1903)かっての教え子、松本亦太郎の協力を得て近代心理学の象徴的存在の
心理学実験室を設立
明治39年(1906)帝国学士院会員に任命。日本における近代心理学の礎を築く。
大正元年(1912)12月13日、カリエスがもとで死去した。従三位・勲二等瑞宝章。
墓所は青山霊園
船舶工学者の元良誠三と物理学者の高橋秀俊は勇次郎の孫にあたる。
上の写真は上述の「元良 勇次郎 顕彰碑」がある七曜橋付近の遠景
七燿橋の右手に顕彰碑があります。
屋敷町の前田邸のある付近に元良 勇次郎の出生地の碑があるが写真を撮ることが
できませんでした。(次回訪問時の課題)
城下町 三田の街めぐりと題して過去4回、下記の記事を書いています。
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第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社
第2回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その2 天神公園の石碑と眺望
第3回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その3 金心寺
第4回 三田の街めぐり on 2018-6-17 その4 三田城跡
シリーズ5回目として「元良 勇次郎 顕彰碑」への訪問記を取り上げました。
上の写真は三田市古城浄水場への登り口すぐの濠の脇に建立された「元良 勇次郎 顕彰碑」
日本最初の心理学者として有名な元良 勇次郎についてWikipediaを中心としてまとめた。
元良 勇次郎(もとら ゆうじろう)(1858-1912)は安政5年11月1日(1858年12月5日)
三田藩で藩校「造士館」儒学者、杉田泰(ゆたか)の次男として生まれ少年期には漢学を
学んだ。明治維新による開国後は洋学に強い関心を抱き、川本幸民・清一父子に学び
さらに神戸のアメリカ人宣教師J.D.Davis宅に住み込みながら英語と洋学の指導を受け
明治7年(1874)16歳で洗礼を受けキリスト教徒となった。この時代にJ・D・デービスが
蔵書していたW. B. カーペンター(英語版)『精神生理学の原理』(Carpenter 1874)に感化
明治8年(1875)には新島襄が創設した同志社英学校に第一期生として入学。
同期には徳富猪一郎(蘇峰)や中島力造(のちの東大倫理学の教授)上野栄三郎らがいる。
同志社英学校では当時としてはめずらしい性理学(現在の心理学)の授業が行なわれており、
ここでの心理学との出会いが彼の一生を決定付けた。
明治12年(1879)春、津田仙から学農社農学校の教員に招かれ同支社を退学。
その後、東京英和学校(青山学院の前身)の設立にも参画する。
明治14年(1881)元良家の養子となる
明治16年(1883)渡米しボストン大学の哲学科に入学するものの、教授の
ボーデン・パーカー・ボウン(1847年-1910年)の保守的なキリスト教哲学と進化論を
めぐって対立してしまい後に依願退学する
明治18年(1885)ジョンズ・ホプキンス大学の生物学教室に転向する。
ジョン・デューイの講義を受ける。倫理学等も含めて学び、スタンレー・ホールの
もとで心理学を学び実験心理学の実験方法を体得した。ジョンズ・ホプキンス大学で
Ph.Dの学位を修める。研究成果はホールと元良の共著「圧の漸次変化と皮膚の感受性」
というタイトルで「アメリカ心理学雑誌」第1巻に掲載。
(ただし心理学専攻ではなく哲学専攻で学位を取得したらしいことが最新の調査で
明らかになりつつある)
明治21年(1888)日本へ帰国し、東京英和学校の教員を務めた。
また帝国大学文科大学にて精神物理学の講義を担当する。
明治22年(1889)外山正一(元東大総長)、神田乃武(元一橋大教授)と共に、
正則予備校設立。後に正則高等学校となり現在に至る。
明治23年(1890)帝国大学文科大学教授に就任する。
明治26年(1893)心理学・倫理学・論理学第一講座担当となる
(後に第2講座を中島力造が担当した)。
明治27年(1894)高等師範学校(現、筑波大学)において心理学を講じる教授を兼任。
明治36年(1903)かっての教え子、松本亦太郎の協力を得て近代心理学の象徴的存在の
心理学実験室を設立
明治39年(1906)帝国学士院会員に任命。日本における近代心理学の礎を築く。
大正元年(1912)12月13日、カリエスがもとで死去した。従三位・勲二等瑞宝章。
墓所は青山霊園
船舶工学者の元良誠三と物理学者の高橋秀俊は勇次郎の孫にあたる。
上の写真は上述の「元良 勇次郎 顕彰碑」がある七曜橋付近の遠景
七燿橋の右手に顕彰碑があります。
屋敷町の前田邸のある付近に元良 勇次郎の出生地の碑があるが写真を撮ることが
できませんでした。(次回訪問時の課題)