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城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その8 心月院墓地

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2018年6月17日、神戸電鉄を利用して三田へ出かけていました。
城下町 三田の街めぐりと題して過去7回、下記の記事を書いています。


過去の記事へリンク
第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社

第2回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その2 天神公園の石碑と眺望

第3回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その3 金心寺

第4回 三田の街めぐり on 2018-6-17 その4 三田城跡

第5回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その5 元良 勇次郎 顕彰碑

第6回 三田の街めぐり on 2018-6-17 その6 川本幸民先生 顕彰碑

第7回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その7 三田藩主の菩提寺「心月院」


シリーズ8回目として「心月院」の墓地を中心に書いていきます。

心月院の基本情報
住所:三田市西山2丁目4−31  TEL:079-562-4310
宗派:曹洞宗 山号:清涼山 御本尊:釈迦牟尼仏 脇侍に文殊菩薩と普賢菩薩
創建:寛永10年(1633) 開祖:旧領の菩薩寺常安寺の覚雄是的和尚
現住職:児島正龍
公式FB:https://www.facebook.com/pages/心月院/183737881696011


旧三田藩主九鬼家の墓
1.第9代から第22代当主の墓

上の写真は入口を入って正面の三田藩主九鬼家の墓です。
正面の大きな五輪塔(奥の一番左手)は藩祖九鬼久隆(在位1633-1649年第11代当主)の
父の九鬼守隆(第9代当主)の墓です。


上の写真は九鬼守隆(第9代当主)の長男で第10代当主の九鬼吉隆の墓
吉隆は病弱で実際には相続せず異腹の弟久隆を養子として相続させた。
この相続に不満を持った三男の隆季(たかすえ)との間に係争が起こり
久隆は三田に移封、隆季は丹波綾部2万石に移封となった。


上の写真は三田藩の藩祖の九鬼久隆の墓です。


上の写真は入口を入って右手の歴代藩主の墓碑群です。




上の2枚の写真は墓所入口と入口左手に掲示の墓碑の位置図

2.第23代当主 九鬼隆義と歴代藩主の妻女の墓

上の写真は第23代当主 九鬼隆義の墓(正面より)

Wikipediaより九鬼隆義(1837-1891)の生涯について引用させていただきます。
丹波綾部藩主・九鬼隆都の三男として天保8年4月5日(1837年5月9日)に出生。
幼名は啓之助。母は側室の佐里。養母は大村純昌の娘。正室は九鬼精隆の娘。
継室は松井松平康爵の娘、佐藤一昌の娘。安政6年(1859年)11月、
第12代(第22代)三田藩主九鬼精隆の急逝により、その養嗣子として跡を
継ぎ、同年12月28日に叙任した。

三田藩主として藩政改革を断行し、下級藩士の白洲退蔵や小寺泰次郎の登用、
スナイドル銃の使用など、藩兵の軍備洋式化を行なった。
当初は、大政奉還に強く反対した佐幕派であったが、勤王派に転身した。

明治になってから隆義は、川本幸民を通じて江戸の福澤諭吉と親密になり、藩士を慶應義塾
に学ばせたり、慶應義塾の学校運営にも助言するなど晩年まで親密な関係となる。
明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となる。
明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免官された。
明治5年(1872年)近代港として将来性のある神戸に居を移し三田藩士の多くもこれに倣った。

上の写真は九鬼隆義の屋敷「宣春園(ぎしゅんえん)」の位置(赤い部分)
明治6年(1873)3月、「志摩三商会」という神戸初の貿易商社を設立(神戸市栄町5丁目)
これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し現在の元町、三宮といった神戸港周辺の
都市開発や女子寄宿学校(神戸女学院の前身)・神戸ホームの創立に関わるなど、
神戸の街づくりに多大な影響を及ぼした。

上の写真は福沢諭吉の助言で設立された志摩三商会に加わった16名の三田藩士の名簿
出典:心月院の掲示資料
明治15年(1882年)より宮内省準奏御用掛華族局に勤務。
明治17年(1884年)7月8日に子爵を叙爵
明治19年(1886年)に吹上・浜両御苑勤務に異動した。
明治20年(1887年)4月24日にキリスト教の洗礼を受けたが、三田内部および
        三田の寺院の強い反対でキリスト教を棄教して仏教に帰信する
明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれた。
明治24年(1891年)1月24日、55歳で死去

子供は九鬼隆輝(長男)、九鬼隆徳(次男)、九鬼隆保(三男)、好子(松方幸次郎室)、
娘(寺島某室)、娘(上野精一室)



上の写真は第23代当主 九鬼隆義の墓(右手)と隆義の養母(母親)の肥前藩第10代
藩主の大村純昌の七女咸(みな)(於安久姫)に所縁の「天然記念物・おおむら桜」(左手)
この桜は平成28年(2016)1月17日に植樹されたものです。
安久姫は嘉永4年(1851)12月三田藩22代藩主九鬼精隆(きよたか)在位1851-1859
に嫁がれました。


上の写真は九鬼隆義の長女、肇(ちょう)の墓です。5歳で没した肇はデービス神父
に依頼しキリスト教式の葬式をし墓石も英文で刻まれています。




上の2枚の写真は第23代当主 九鬼隆義と歴代藩主の妻女の墓の遠景です。

三田藩士 九鬼隆一の墓


上の写真は九鬼隆一の墓の遠景です。右手に景慕碑と綾部藩家老・九鬼隆周夫妻の墓が
写っています。


上の写真は景慕碑(大正8年(1919)3月に九鬼隆一が建立したもので
木戸公尊霊・大久保公尊霊・岩倉公尊霊・フルベッキ先生尊霊・福沢先生尊霊・
加藤浩之先生尊霊などと刻まれています。

九鬼隆一男爵(1852-1931)についてWikipediaより略歴を記載しておきます。
九鬼 隆一(くき りゅういち、嘉永5年8月7日(1852年9月12日)- 昭和6年(1931年)
8月18日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。旧綾部藩士。男爵。
号は成海。摂津国三田出身。慶應義塾に学んだのち文部省に出仕し、若くして文部少輔
(現在の事務次官)にまで栄進。1884年(明治17年)、駐米特命全権公使に転じ、
1888年(明治21年)に帰国すると図書頭、臨時全国宝物取調委員長、宮中顧問官、
帝国博物館総長を歴任。美術行政に尽力した。また貴族院議員、次いで枢密顧問官を兼任。
1900年(明治33年)に総長を退いてからは枢密顧問官を長く務めた。
1914年(大正4年)には郷里に三田博物館を設立し、自らの美術コレクションを展示・公開
している。息子は哲学者の九鬼周造。

白洲家の墓





上の3枚の写真は白洲次郎(1902-1985)と正子(1910-1998)の墓と案内石碑と説明板
右手が白洲次郎、左手が白洲正子で五輪塔板碑になっており次郎の碑には不動明王
正子の碑には十一面観音の梵字が彫られています。
白洲次郎と正子を中心とした関連家系図を添付しておきます。(下の写真)

出典:心月院本堂に掲示の資料



上の写真は白洲次郎の兄弟の墓


上の写真は白洲次郎の父の白洲文平と母よし子の墓




上の2枚の写真は白洲退蔵の墓の近景と遠景

遠景の写真、白洲退蔵の右手には退蔵の父、白洲文五郎吉明(文政3年11月23日没)など
江戸時代に九鬼家に仕えた白洲家の先祖の墓が並んでいます。


上の写真は白洲家3代(退蔵、文平、次郎)の家系図
出典:心月院本堂の掲示

無縁仏

上の写真は心月院は墓地の入口付近の無縁仏

墓の場所(心月院境内図)

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