2018年6月17日、神戸電鉄を利用して三田へ出かけていました。
城下町 三田の街めぐりと題して過去9回、下記の記事を書いています。
過去の記事へリンク
第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社
第2回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その2 天神公園の石碑と眺望
第3回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その3 金心寺
第4回 三田の街めぐり on 2018-6-17 その4 三田城跡
第5回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その5 元良 勇次郎 顕彰碑
第6回 三田の街めぐり on 2018-6-17 その6 川本幸民先生 顕彰碑
第7回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その7 三田藩主の菩提寺「心月院」
第8回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その8 心月院墓地
第9回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その9 三田博物館跡
第10回として白洲退蔵も教鞭をとった藩校造士館跡を写真紹介します。
個人情報保護の関係から説明パネルのもを掲載しました。(下の写真)
説明パネルはさんだふるさと学習館の横(西側)の民家の前にあります。
説明文が読み難いと思いますので転記しました。
白洲退蔵も教鞭をとった 藩校造士館跡
三田藩の学問所は元禄7年(1694)に四代藩主九鬼副隆が儒官白洲文蔵に藩士子弟の
教育を委託したことに始まり、白洲家が代々儒官として朱子学を教えた。
文政元年(1818)、十代藩主九鬼隆国が儒学の発展のため九鬼藤之丞の屋敷跡1,500坪
の敷地に聖堂を建て、白洲邸内にあった国光館を移し、造士館と改めた。
白洲退蔵が教鞭をとり、川本幸民もここで学んだ。
慶応4年(1868)には、十三代藩主九鬼隆義が従来の学問に洋学を加えたが、廃藩に
際してほどなく造士館は廃校となった。
歴史の散歩道 藩校造士館跡 三田市観光協会
城下町 三田の街めぐりと題して過去9回、下記の記事を書いています。
過去の記事へリンク
第1回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その1 三田天満神社
第2回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その2 天神公園の石碑と眺望
第3回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その3 金心寺
第4回 三田の街めぐり on 2018-6-17 その4 三田城跡
第5回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その5 元良 勇次郎 顕彰碑
第6回 三田の街めぐり on 2018-6-17 その6 川本幸民先生 顕彰碑
第7回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その7 三田藩主の菩提寺「心月院」
第8回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その8 心月院墓地
第9回 城下町 三田の街めぐり on 2018-6-17 その9 三田博物館跡
第10回として白洲退蔵も教鞭をとった藩校造士館跡を写真紹介します。
個人情報保護の関係から説明パネルのもを掲載しました。(下の写真)
説明パネルはさんだふるさと学習館の横(西側)の民家の前にあります。
説明文が読み難いと思いますので転記しました。
白洲退蔵も教鞭をとった 藩校造士館跡
三田藩の学問所は元禄7年(1694)に四代藩主九鬼副隆が儒官白洲文蔵に藩士子弟の
教育を委託したことに始まり、白洲家が代々儒官として朱子学を教えた。
文政元年(1818)、十代藩主九鬼隆国が儒学の発展のため九鬼藤之丞の屋敷跡1,500坪
の敷地に聖堂を建て、白洲邸内にあった国光館を移し、造士館と改めた。
白洲退蔵が教鞭をとり、川本幸民もここで学んだ。
慶応4年(1868)には、十三代藩主九鬼隆義が従来の学問に洋学を加えたが、廃藩に
際してほどなく造士館は廃校となった。
歴史の散歩道 藩校造士館跡 三田市観光協会