2014年10月14日は「坂越の船祭り」、2018年10月28日は「坂越の嫁入り」を観る目的で
赤穂市坂越(さこし)に来ていました。
その時に散策した場所を紹介していきます。
その第1回として宝性(ほうしょう)山長楽(ちょうらく)寺を紹介します。
宝性山長楽寺の基本情報
住所:赤穂市砂子398 TEL:791-48-8060
宗派:天台宗 山号:宝性山 御本尊:聖観世音菩薩、不動明王、薬師如来
創建:聖武天皇の神亀年間(724-729)行基により創建
中興:正保元年(1644)円盛
播磨西国三十三所観世音霊場 第9番、播州薬師霊場 第19番
御詠歌:法の庭 名におう梅の匂うこそ 長く楽しむ寺居なりけり
Goo地図を添付
上の写真は山門。
鐘楼も兼ねており平成元年(1989)比叡山開創千二百年慶讃事業として改築されました。
上の写真は本殿。本殿は昭和47年(1972)に鉄筋、銅板葺の建物を建立して本尊などは
ここに安置されています。
上の写真は長楽寺の境内に入る入口で右手の「天台赤穂成田山」「波切不動明王」と
刻まれた板碑が目立ちます。
この石碑は日本で最初の「赤穂水道」に使用されていたもので昭和43年(1968)5月
明治100年を記念して建立されたものです。
当時の住職は河野道隆氏。石碑の裏側に経緯などが記載されています。
水切不動明王もこの時に奉納されました。
上の写真は裏山にかって伽藍があった跡地です。
礎石が置かれていました。最盛期には12坊及び上下の大門がったが、嘉吉の乱の兵火
により長楽寺の坊のほとんどが焼失した。
嘉吉の乱(1441)
嘉吉元年(1441)6月24日播磨、備前、美作3国の守護赤松満祐(あかまつ みつすけ)
は京都の私邸(京都西洞院二条)で室町幕府6代将軍足利義教公を殺害します。
さらに将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城に帰ります。そこから
足利ゆかりの安国寺(加東市東条町)で盛大な法要を営んで葬ったと伝えられています。
この事件を嘉吉の乱と呼び「嘉吉物語」や「嘉吉太平記」に詳しく書かれています。
足利義教の首級は7月1日、季瓊真蘂が赤松満祐に会い、義教の首の返還を求めた。
赤松満祐は快く首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、7月6日に等持院で
義教の葬儀が行われた。
室町幕府側の管領細川持之の要請で嘉吉の乱から2か月後に朝廷から赤松追討の綸言を得て
幕府軍として赤松勢と明石、塩屋で合戦し、小勢の赤松軍は敗れました。明石での合戦では
赤松満祐の弟の赤松祐尚が大蔵谷に陣を構え幕府軍と戦いました。赤松祐尚は中巌和尚を
敬慕していましたので、居城を三木に移すにあたり、陣屋の跡を寺院にしたと言います。
墓地には赤松祐尚夫妻の墓があり、夫婦の法号の「見江院」「大蔵院」が山号と寺名に
なっています。これが大蔵院のはじまりです。
赤松満祐は本拠地赤松村に帰り、城山城で戦ったが敗れて満祐は自害、子の教康も
逃げる途中で自害した。赤松満祐が将軍として擁立した足利義尊も殺されました。
この乱(嘉吉の乱)で播磨、備前、美作3国は没収され赤松氏の嫡流家は滅亡した。
上の写真は御本尊中央の波切不動尊像
上の写真は御本尊右手の聖観音像
上の写真は御本尊の薬師如来像
2018年10月28日の散策にあたってはレンタサイクルを利用しています。
2018年4月24日の神戸新聞淡路W版で次のように紹介されています。
「赤穂市はJR坂越駅前に4月24日レンタサイクル10台を置き運用を開始。1日300円
旧坂越浦会所や大避神社など散策モデルコースを記載した地図も設置」
現地の写真を何枚か添付しておきます。
上の4枚の写真は2018-4-24に新規に設置されたレンタサイクルの自動配車システム
の遠景と操作説明など
上の写真は2018-4-24に設置された散策モデルコース
赤穂市坂越(さこし)に来ていました。
その時に散策した場所を紹介していきます。
その第1回として宝性(ほうしょう)山長楽(ちょうらく)寺を紹介します。
宝性山長楽寺の基本情報
住所:赤穂市砂子398 TEL:791-48-8060
宗派:天台宗 山号:宝性山 御本尊:聖観世音菩薩、不動明王、薬師如来
創建:聖武天皇の神亀年間(724-729)行基により創建
中興:正保元年(1644)円盛
播磨西国三十三所観世音霊場 第9番、播州薬師霊場 第19番
御詠歌:法の庭 名におう梅の匂うこそ 長く楽しむ寺居なりけり
Goo地図を添付
上の写真は山門。
鐘楼も兼ねており平成元年(1989)比叡山開創千二百年慶讃事業として改築されました。
上の写真は本殿。本殿は昭和47年(1972)に鉄筋、銅板葺の建物を建立して本尊などは
ここに安置されています。
上の写真は長楽寺の境内に入る入口で右手の「天台赤穂成田山」「波切不動明王」と
刻まれた板碑が目立ちます。
この石碑は日本で最初の「赤穂水道」に使用されていたもので昭和43年(1968)5月
明治100年を記念して建立されたものです。
当時の住職は河野道隆氏。石碑の裏側に経緯などが記載されています。
水切不動明王もこの時に奉納されました。
上の写真は裏山にかって伽藍があった跡地です。
礎石が置かれていました。最盛期には12坊及び上下の大門がったが、嘉吉の乱の兵火
により長楽寺の坊のほとんどが焼失した。
嘉吉の乱(1441)
嘉吉元年(1441)6月24日播磨、備前、美作3国の守護赤松満祐(あかまつ みつすけ)
は京都の私邸(京都西洞院二条)で室町幕府6代将軍足利義教公を殺害します。
さらに将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城に帰ります。そこから
足利ゆかりの安国寺(加東市東条町)で盛大な法要を営んで葬ったと伝えられています。
この事件を嘉吉の乱と呼び「嘉吉物語」や「嘉吉太平記」に詳しく書かれています。
足利義教の首級は7月1日、季瓊真蘂が赤松満祐に会い、義教の首の返還を求めた。
赤松満祐は快く首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、7月6日に等持院で
義教の葬儀が行われた。
室町幕府側の管領細川持之の要請で嘉吉の乱から2か月後に朝廷から赤松追討の綸言を得て
幕府軍として赤松勢と明石、塩屋で合戦し、小勢の赤松軍は敗れました。明石での合戦では
赤松満祐の弟の赤松祐尚が大蔵谷に陣を構え幕府軍と戦いました。赤松祐尚は中巌和尚を
敬慕していましたので、居城を三木に移すにあたり、陣屋の跡を寺院にしたと言います。
墓地には赤松祐尚夫妻の墓があり、夫婦の法号の「見江院」「大蔵院」が山号と寺名に
なっています。これが大蔵院のはじまりです。
赤松満祐は本拠地赤松村に帰り、城山城で戦ったが敗れて満祐は自害、子の教康も
逃げる途中で自害した。赤松満祐が将軍として擁立した足利義尊も殺されました。
この乱(嘉吉の乱)で播磨、備前、美作3国は没収され赤松氏の嫡流家は滅亡した。
上の写真は御本尊中央の波切不動尊像
上の写真は御本尊右手の聖観音像
上の写真は御本尊の薬師如来像
2018年10月28日の散策にあたってはレンタサイクルを利用しています。
2018年4月24日の神戸新聞淡路W版で次のように紹介されています。
「赤穂市はJR坂越駅前に4月24日レンタサイクル10台を置き運用を開始。1日300円
旧坂越浦会所や大避神社など散策モデルコースを記載した地図も設置」
現地の写真を何枚か添付しておきます。
上の4枚の写真は2018-4-24に新規に設置されたレンタサイクルの自動配車システム
の遠景と操作説明など
上の写真は2018-4-24に設置された散策モデルコース