2018年10月14日は「坂越の船祭り」、2018年10月28日は「坂越の嫁入り」を観る目的で
赤穂市坂越(さこし)に来ていました。
2018年10月14日の散策にあたっては赤穂観光周遊バス「陣たく号」を利用、
2018年10月28日の散策にあたってはレンタサイクルを利用しています。
その時に散策した場所を紹介していきます。
本日はその第21回 小倉御前之碑を紹介します。
シリーズ過去の記事:
第1回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その1 宝性山長楽寺
第2回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その2 赤穂鉄道砂子駅跡
第3回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その3 宝寿山 西山寺
第4回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その4 浜市荒神社
第5回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その5 尼子塚
第6回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その6 坂越大橋
第7回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その7 高瀬舟船着場跡
第8回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その8 上高谷荒神社
第9回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その9 木戸門跡広場
第10回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その10 鳥井の地蔵堂
第11回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その11 第39回 坂越ふるさとまつり
第12回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その12 坂越まち並み館
第13回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その13 光明山妙道寺
第14回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その14 奥藤酒造と奥藤酒造郷土館
第15回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その15 大道井
第16回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その16 とうろん台
第17回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その17 旧坂越浦会所
第18回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その18 山崎善吾の銅像
第19回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その19 坂越浦城跡・御番所跡
第20回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その20 宝珠山妙見寺明覚院・小学校跡
上の写真が小倉御前之碑です。
小倉御前は南朝方の最後の天皇第99代後亀山天皇(在位は1383-1392、生没年は?-1424)
の皇子で京都嵯峨野の小倉山に住み小倉宮と慕われていたが足利将軍家との争いに敗れ
坂越に隠れ住んでいました。嘉吉の乱(1441)後、山名持豊が坂越に進出するに及び
ことこれまでと坂越の海に入水自殺したという。
その場所の海底に御前岩と呼ばれる岩があったが現在は「ふるさと海岸整備」により
埋め立てられ陸地となっているが海から見て御前岩があった方向に「小倉御前の碑」
と説明板が設置されています。
大避神社祭礼の船渡御では船団が東の浜から出航してすぐの亀の甲付近を通過時に
各船から酒・塩・洗い米を海中に投げ入れ御前岩の方向に向かって遥拝が行われている。
上の写真は現地説明板です。
御前岩の名称は小椋御殿岩と書かれています。
嘉吉の乱(1441)
嘉吉元年(1441)6月24日播磨、備前、美作3国の守護赤松満祐(あかまつ みつすけ)
は京都の私邸(京都西洞院二条)で室町幕府6代将軍足利義教公を殺害します。
さらに将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城に帰ります。そこから
足利ゆかりの安国寺(加東市東条町)で盛大な法要を営んで葬ったと伝えられています。
この事件を嘉吉の乱と呼び「嘉吉物語」や「嘉吉太平記」に詳しく書かれています。
足利義教の首級は7月1日、季瓊真蘂が赤松満祐に会い、義教の首の返還を求めた。
赤松満祐は快く首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、7月6日に等持院で
義教の葬儀が行われた。
室町幕府側の管領細川持之の要請で嘉吉の乱から2か月後に朝廷から赤松追討の綸言を得て
幕府軍として赤松勢と明石、塩屋で合戦し、小勢の赤松軍は敗れました。明石での合戦では
赤松満祐の弟の赤松祐尚が大蔵谷に陣を構え幕府軍と戦いました。赤松祐尚は中巌和尚を
敬慕していましたので、居城を三木に移すにあたり、陣屋の跡を寺院にしたと言います。
墓地には赤松祐尚夫妻の墓があり、夫婦の法号の「見江院」「大蔵院」が山号と寺名に
なっています。これが大蔵院のはじまりです。
赤松満祐は本拠地赤松村に帰り、城山城で戦ったが敗れて満祐は自害、子の教康も
逃げる途中で自害した。赤松満祐が将軍として擁立した足利義尊も殺されました。
この乱(嘉吉の乱)で播磨、備前、美作3国は没収され赤松氏の嫡流家は滅亡した。
南北朝の統一(1382)
第100代天皇後小松天皇(在位1382--1412、生没年1377-1433)が即位後10年経った
明徳3年(1392)、足利義満により南北朝が統一されました。
北朝第6代として即位した後小松天皇は南朝の後亀山天皇から三種の神器を受け取り
正式に皇統を継承しました。
南北統一に伴い公武の両権力の頂点にたった足利義満は中国の明皇帝から「日本国王」
の称号を与えられています。
赤穂市坂越(さこし)に来ていました。
2018年10月14日の散策にあたっては赤穂観光周遊バス「陣たく号」を利用、
2018年10月28日の散策にあたってはレンタサイクルを利用しています。
その時に散策した場所を紹介していきます。
本日はその第21回 小倉御前之碑を紹介します。
シリーズ過去の記事:
第1回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その1 宝性山長楽寺
第2回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その2 赤穂鉄道砂子駅跡
第3回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その3 宝寿山 西山寺
第4回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その4 浜市荒神社
第5回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その5 尼子塚
第6回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その6 坂越大橋
第7回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その7 高瀬舟船着場跡
第8回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その8 上高谷荒神社
第9回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その9 木戸門跡広場
第10回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その10 鳥井の地蔵堂
第11回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その11 第39回 坂越ふるさとまつり
第12回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その12 坂越まち並み館
第13回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その13 光明山妙道寺
第14回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その14 奥藤酒造と奥藤酒造郷土館
第15回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その15 大道井
第16回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その16 とうろん台
第17回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その17 旧坂越浦会所
第18回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その18 山崎善吾の銅像
第19回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その19 坂越浦城跡・御番所跡
第20回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その20 宝珠山妙見寺明覚院・小学校跡
上の写真が小倉御前之碑です。
小倉御前は南朝方の最後の天皇第99代後亀山天皇(在位は1383-1392、生没年は?-1424)
の皇子で京都嵯峨野の小倉山に住み小倉宮と慕われていたが足利将軍家との争いに敗れ
坂越に隠れ住んでいました。嘉吉の乱(1441)後、山名持豊が坂越に進出するに及び
ことこれまでと坂越の海に入水自殺したという。
その場所の海底に御前岩と呼ばれる岩があったが現在は「ふるさと海岸整備」により
埋め立てられ陸地となっているが海から見て御前岩があった方向に「小倉御前の碑」
と説明板が設置されています。
大避神社祭礼の船渡御では船団が東の浜から出航してすぐの亀の甲付近を通過時に
各船から酒・塩・洗い米を海中に投げ入れ御前岩の方向に向かって遥拝が行われている。
上の写真は現地説明板です。
御前岩の名称は小椋御殿岩と書かれています。
嘉吉の乱(1441)
嘉吉元年(1441)6月24日播磨、備前、美作3国の守護赤松満祐(あかまつ みつすけ)
は京都の私邸(京都西洞院二条)で室町幕府6代将軍足利義教公を殺害します。
さらに将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城に帰ります。そこから
足利ゆかりの安国寺(加東市東条町)で盛大な法要を営んで葬ったと伝えられています。
この事件を嘉吉の乱と呼び「嘉吉物語」や「嘉吉太平記」に詳しく書かれています。
足利義教の首級は7月1日、季瓊真蘂が赤松満祐に会い、義教の首の返還を求めた。
赤松満祐は快く首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、7月6日に等持院で
義教の葬儀が行われた。
室町幕府側の管領細川持之の要請で嘉吉の乱から2か月後に朝廷から赤松追討の綸言を得て
幕府軍として赤松勢と明石、塩屋で合戦し、小勢の赤松軍は敗れました。明石での合戦では
赤松満祐の弟の赤松祐尚が大蔵谷に陣を構え幕府軍と戦いました。赤松祐尚は中巌和尚を
敬慕していましたので、居城を三木に移すにあたり、陣屋の跡を寺院にしたと言います。
墓地には赤松祐尚夫妻の墓があり、夫婦の法号の「見江院」「大蔵院」が山号と寺名に
なっています。これが大蔵院のはじまりです。
赤松満祐は本拠地赤松村に帰り、城山城で戦ったが敗れて満祐は自害、子の教康も
逃げる途中で自害した。赤松満祐が将軍として擁立した足利義尊も殺されました。
この乱(嘉吉の乱)で播磨、備前、美作3国は没収され赤松氏の嫡流家は滅亡した。
南北朝の統一(1382)
第100代天皇後小松天皇(在位1382--1412、生没年1377-1433)が即位後10年経った
明徳3年(1392)、足利義満により南北朝が統一されました。
北朝第6代として即位した後小松天皇は南朝の後亀山天皇から三種の神器を受け取り
正式に皇統を継承しました。
南北統一に伴い公武の両権力の頂点にたった足利義満は中国の明皇帝から「日本国王」
の称号を与えられています。