2019年1月27日、明石市人丸山の柿本神社の鳥居がある付近にある「亀の水」の前を
通り、写真を撮りましたので紹介するとともに、稲垣足穂著の「タルホ大阪・明石年代記」
に書かれている亀の水の記述を紹介していきます。
まず、亀の水について記載していきます。
上の2枚の写真は亀の口から水が噴出している部分の拡大写真です。
亀の頭の部分(口)より清泉が噴き出しています。
文政年間(1818-1829)に水手奉行山田歓吾により柄杓が備えられたと
伝えられています。
上の写真は亀の水の中景です。
上の写真は2019-1-27撮影の亀の水の遠景です。
手水鉢は享保4年(1719)常陸の国の飯塚宣政氏の寄進によるものです。
飯塚宣雅氏は常陸の国の目明しで罪人を追って明石までやってきたのですが、
柿本神社に祈願しその役目を成就できたのでこの手水鉢を寄進したものです。
現在の上屋は平成2年(1990)4月8日に葺き替えられたもので同時に柵も新たに
つくられました。銅板屋根は平成7年(1995)に葺き替え。
明石市林崎3丁目5番の(株)西田工務店が施工。
常陸国(茨城県)の人飯塚宣政(いいづかよしまさ)氏が何故寄進したのかについて
神戸新聞明石総局編『あかし昔ばなし』(明石文庫の会)の「亀の水」に次のように記載。
江戸時代中期の享保4年(1719)ごろの話です。江戸の目明しに飯塚宣政という人が
いました。悪人を追っかけて浪華から播磨までやってきました。しかし、どうしても
悪人はつかまりません。苦しい時の神頼みといいますが、飯塚も柿本神社に参り、
「なんとか悪人をつかまえさせてください」と願をかけました。
この願いが聞き届けられたのか、間もなく悪人を捕えることができました。
江戸の奉行は大変喜んで「ほうびに日本橋近くの土地をやろう」といいました。
飯塚は「捕えることのできたのは、柿本さんのおかげです。ほうびのかわりに悪人の罪を
一等減らしてやって下さい」と辞退しました。
その年の十二月、飯塚は柿本神社にお礼にやってきました。参道をのぼろうとしてふと見ると、
霊泉、亀の水をうけている甕(かめ)が割れていました。「これはあまりにも見すぼらしい。
割れない石の手水鉢をお礼に寄進しよう」と、立派な手水鉢をつくって置きました。
この手水鉢はいまも清らかな水を受けています。飯塚の子孫は東京と茨城にいますが、
最近、明石を訪れ、先祖をしのんだといいます。
何故、亀の水になったかについては寛文4年(1664)、柿本神社の境内に柿本人麻呂の顕彰碑
の台座に亀が使用されていることに因み通称「亀の碑」が建てらていますが、この亀に因み
亀の水になったものと思われます。
上の写真は本日のテーマ「亀の水」のある附近の案内図です。
明石天文台の裏手の柿本神社の西側の上り口にあります。
次に稲垣足穂著 『タルホ大阪・明石年代記』 論風社 1991年7月刊Page225に記述の
亀の水について要約して紹介します。
明石の井戸、特に海辺の井戸は塩分が多い。市中の井戸は金気くさく、且つ水垢だらけで
そのままでは使えない。これが住みよい土地の唯一の欠点なのである。でも、この悪水の
明石にも飛び切り上等の水がある。
「漫歩、明石神社を拝し、林間の石段を上り下りて人丸神社に至る。石燈の麓に亀齢井(かめのい)
と称する霊泉あり、掬(すくう)するに清冷水の如し」(永井荷風・罹災日録)
何故にこの水ばかりがこんなに冷たくて、おいしいのか?それは水が背後の山の土中を通って
切る時、あっちの死人にぶっつかり、こっちの棺桶の中を抜けて、だんだん味がつくからだと。
直ぐ裏手に月照寺の墓地があることを示すものであるが亀の水は、本当は山裾から湧き出していない。
偏奇舘主人(永井荷風)の直観通りに、それは、山上の水利不便にそなえられた掘抜き井戸
なのである。山上の茶店では、夕べごとに二荷をここから運び上げていたが、私も月照寺に間借
していた夏じゅう、朝ごとに長い石段を此処まで洗面に下りていたものだ。水晶のようにきれいだが、
何しろほんのたらたら水なので、順番を待つのが一苦労だ。余所から汲みにきて、中には天秤棒で
桶を担ってくる者さえあるからである。昔からみんながここにきて、米を磨ぎ、洗濯するので、
備えつけの瓶がしょっちゅう毀れた。享保四年に常陸の国からお詣りにやってきた飯坂重右衛門
という人が、その由を耳にして、現在の水盆を寄進した。
稲垣足穂についてWikipediaより引用紹介します。
稲垣 足穂(いながき たるほ、1900年12月26日 - 1977年10月25日)は、日本の小説家。
1920年代(大正末)から1970年代(昭和後期)にかけて、抽象志向と飛行願望、
メカニズム愛好、エロティシズム、天体とオブジェなどをモチーフにした数々の作品を発表した。
代表作は『一千一秒物語』、『少年愛の美学』など。
稲垣足穂は明治33年(1900)、大阪市船場に歯科医の次男として生まれた。
7歳の頃から謡曲、仕舞を習う。小学生の時、祖父母のいる明石に移住し、神戸で育つ。
大正3年(1914)、関西学院普通部に入学。関西学院では今東光などと同級になった。
小さいころから映画や飛行機などに魅了され、その経験をその後の作品に昇華させる。
在学時に同人誌『飛行画報』を創刊。
大正5年(1916)、飛行家を目指し発足したばかりの羽田の「日本飛行機学校」の第一期生に
応募するが、近視のため不合格となり断念した。
大正8年(1919)、関西学院卒業後、神戸で複葉機製作に携わり後に再び上京する。
出版社に原稿を送った後の1921年、佐藤春夫に『一千一秒物語』の原型を送付、佐藤の知遇を
得て佐藤の弟の住まいに転居した。
東京での稲垣足穂は陸軍の補充兵として向こう3年間、点呼のために本籍のある明石へ帰省
することが求められた。その都度、人丸山月照寺の離れで起居した。
大正10年(1921)月照寺で初期の作品「星を売る店」を書き上げた。
上述のように亀の水へは洗面のために毎日のように訪れていたと思われます
天文学や工学などの深い知識で独自の世界を描き、後に佐藤春夫や三島由紀夫らに絶賛された。
三島由紀夫は稲垣足穂を評して「昭和文学のもっとも微妙な花の一つ」と述べています。
上の写真(石碑)のように長寿にご利益のある水のようです。
この清泉は元和7年(1621)山上にある月照寺や人丸社(柿本神社)を参詣する人のために
竹の筒で水を提供されたのが始まりのようです。
1719年以前に噴出と書かれています。
上の写真は亀の水の現地説明板。
寛文4年(1664)以前から流れ出ていたと伝えられています。
水を吐く亀形の樋水口は享保4年(1719)12月に作られました。
上の写真は柿本神社の扁額がかかった鳥居
鳥居は阪神淡路大震災で一部が破壊されたため補修され、補修した部分が白くなっており
はっきりと古いものと区別がつきます。
古いものも現地の脇に置かれています。
上の2枚の写真は「時の道ー亀の水」の案内板と干支(未)の絵
案内板には干支、ここでは未の絵が描かれたものがついています。
通り、写真を撮りましたので紹介するとともに、稲垣足穂著の「タルホ大阪・明石年代記」
に書かれている亀の水の記述を紹介していきます。
まず、亀の水について記載していきます。
上の2枚の写真は亀の口から水が噴出している部分の拡大写真です。
亀の頭の部分(口)より清泉が噴き出しています。
文政年間(1818-1829)に水手奉行山田歓吾により柄杓が備えられたと
伝えられています。
上の写真は亀の水の中景です。
上の写真は2019-1-27撮影の亀の水の遠景です。
手水鉢は享保4年(1719)常陸の国の飯塚宣政氏の寄進によるものです。
飯塚宣雅氏は常陸の国の目明しで罪人を追って明石までやってきたのですが、
柿本神社に祈願しその役目を成就できたのでこの手水鉢を寄進したものです。
現在の上屋は平成2年(1990)4月8日に葺き替えられたもので同時に柵も新たに
つくられました。銅板屋根は平成7年(1995)に葺き替え。
明石市林崎3丁目5番の(株)西田工務店が施工。
常陸国(茨城県)の人飯塚宣政(いいづかよしまさ)氏が何故寄進したのかについて
神戸新聞明石総局編『あかし昔ばなし』(明石文庫の会)の「亀の水」に次のように記載。
江戸時代中期の享保4年(1719)ごろの話です。江戸の目明しに飯塚宣政という人が
いました。悪人を追っかけて浪華から播磨までやってきました。しかし、どうしても
悪人はつかまりません。苦しい時の神頼みといいますが、飯塚も柿本神社に参り、
「なんとか悪人をつかまえさせてください」と願をかけました。
この願いが聞き届けられたのか、間もなく悪人を捕えることができました。
江戸の奉行は大変喜んで「ほうびに日本橋近くの土地をやろう」といいました。
飯塚は「捕えることのできたのは、柿本さんのおかげです。ほうびのかわりに悪人の罪を
一等減らしてやって下さい」と辞退しました。
その年の十二月、飯塚は柿本神社にお礼にやってきました。参道をのぼろうとしてふと見ると、
霊泉、亀の水をうけている甕(かめ)が割れていました。「これはあまりにも見すぼらしい。
割れない石の手水鉢をお礼に寄進しよう」と、立派な手水鉢をつくって置きました。
この手水鉢はいまも清らかな水を受けています。飯塚の子孫は東京と茨城にいますが、
最近、明石を訪れ、先祖をしのんだといいます。
何故、亀の水になったかについては寛文4年(1664)、柿本神社の境内に柿本人麻呂の顕彰碑
の台座に亀が使用されていることに因み通称「亀の碑」が建てらていますが、この亀に因み
亀の水になったものと思われます。
上の写真は本日のテーマ「亀の水」のある附近の案内図です。
明石天文台の裏手の柿本神社の西側の上り口にあります。
次に稲垣足穂著 『タルホ大阪・明石年代記』 論風社 1991年7月刊Page225に記述の
亀の水について要約して紹介します。
明石の井戸、特に海辺の井戸は塩分が多い。市中の井戸は金気くさく、且つ水垢だらけで
そのままでは使えない。これが住みよい土地の唯一の欠点なのである。でも、この悪水の
明石にも飛び切り上等の水がある。
「漫歩、明石神社を拝し、林間の石段を上り下りて人丸神社に至る。石燈の麓に亀齢井(かめのい)
と称する霊泉あり、掬(すくう)するに清冷水の如し」(永井荷風・罹災日録)
何故にこの水ばかりがこんなに冷たくて、おいしいのか?それは水が背後の山の土中を通って
切る時、あっちの死人にぶっつかり、こっちの棺桶の中を抜けて、だんだん味がつくからだと。
直ぐ裏手に月照寺の墓地があることを示すものであるが亀の水は、本当は山裾から湧き出していない。
偏奇舘主人(永井荷風)の直観通りに、それは、山上の水利不便にそなえられた掘抜き井戸
なのである。山上の茶店では、夕べごとに二荷をここから運び上げていたが、私も月照寺に間借
していた夏じゅう、朝ごとに長い石段を此処まで洗面に下りていたものだ。水晶のようにきれいだが、
何しろほんのたらたら水なので、順番を待つのが一苦労だ。余所から汲みにきて、中には天秤棒で
桶を担ってくる者さえあるからである。昔からみんながここにきて、米を磨ぎ、洗濯するので、
備えつけの瓶がしょっちゅう毀れた。享保四年に常陸の国からお詣りにやってきた飯坂重右衛門
という人が、その由を耳にして、現在の水盆を寄進した。
稲垣足穂についてWikipediaより引用紹介します。
稲垣 足穂(いながき たるほ、1900年12月26日 - 1977年10月25日)は、日本の小説家。
1920年代(大正末)から1970年代(昭和後期)にかけて、抽象志向と飛行願望、
メカニズム愛好、エロティシズム、天体とオブジェなどをモチーフにした数々の作品を発表した。
代表作は『一千一秒物語』、『少年愛の美学』など。
稲垣足穂は明治33年(1900)、大阪市船場に歯科医の次男として生まれた。
7歳の頃から謡曲、仕舞を習う。小学生の時、祖父母のいる明石に移住し、神戸で育つ。
大正3年(1914)、関西学院普通部に入学。関西学院では今東光などと同級になった。
小さいころから映画や飛行機などに魅了され、その経験をその後の作品に昇華させる。
在学時に同人誌『飛行画報』を創刊。
大正5年(1916)、飛行家を目指し発足したばかりの羽田の「日本飛行機学校」の第一期生に
応募するが、近視のため不合格となり断念した。
大正8年(1919)、関西学院卒業後、神戸で複葉機製作に携わり後に再び上京する。
出版社に原稿を送った後の1921年、佐藤春夫に『一千一秒物語』の原型を送付、佐藤の知遇を
得て佐藤の弟の住まいに転居した。
東京での稲垣足穂は陸軍の補充兵として向こう3年間、点呼のために本籍のある明石へ帰省
することが求められた。その都度、人丸山月照寺の離れで起居した。
大正10年(1921)月照寺で初期の作品「星を売る店」を書き上げた。
上述のように亀の水へは洗面のために毎日のように訪れていたと思われます
天文学や工学などの深い知識で独自の世界を描き、後に佐藤春夫や三島由紀夫らに絶賛された。
三島由紀夫は稲垣足穂を評して「昭和文学のもっとも微妙な花の一つ」と述べています。
上の写真(石碑)のように長寿にご利益のある水のようです。
この清泉は元和7年(1621)山上にある月照寺や人丸社(柿本神社)を参詣する人のために
竹の筒で水を提供されたのが始まりのようです。
1719年以前に噴出と書かれています。
上の写真は亀の水の現地説明板。
寛文4年(1664)以前から流れ出ていたと伝えられています。
水を吐く亀形の樋水口は享保4年(1719)12月に作られました。
上の写真は柿本神社の扁額がかかった鳥居
鳥居は阪神淡路大震災で一部が破壊されたため補修され、補修した部分が白くなっており
はっきりと古いものと区別がつきます。
古いものも現地の脇に置かれています。
上の2枚の写真は「時の道ー亀の水」の案内板と干支(未)の絵
案内板には干支、ここでは未の絵が描かれたものがついています。