2018年11月18日(日)、北前船寄港地セミナー in 赤穂市坂越浦が
赤穂ロイヤルホテルであった為、出かけていました。
その時に神戸新聞2018年10月11日付けで報道があった表題の赤穂城跡二之丸東櫓台と
西中門跡の発掘調査に関する記事により興味を持ったので現地を確認しようと思い
現地を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。
尚、現地説明会は2018年10月13日(土)に行われたようです。
また、発掘調査の概要についてインターネットにより調べてみました。
参照サイト
1)赤穂城二之丸東櫓台・西中門跡の発掘調査 - 赤穂市教育委員会(PDF)
2)赤穂民報 2018年10月10日号 「東櫓台と西中門 発掘で規模や構造明らかに」
3)神戸新聞NEXT 2018-10-10「赤穂城跡、江戸時代の門周辺景観が判明 市教委発掘調査」
赤穂城の縄張図
まず、発掘場所を確認するために赤穂城の縄張図を添付しました。(下の写真)
赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から
入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命令、慶安元年(1648)
より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した
甲州流軍学の海岸平城である。
以上は二の丸現地説明委板よりの引用
赤字で発掘現場の場所を示しています。
出典:赤穂市立歴史博物館編 赤穂城絵図展(2000)Page73
また、赤穂城の地形と周辺全体を把握するために播州赤穂家中近辺町在之絵図(部分)を
添付しました。(下の写真)
出典:赤穂市立歴史博物館編 赤穂城絵図展(2000)Page43
現地写真
二之丸東櫓台
二の丸東櫓台は赤穂藩の米倉と船入(船を接岸させる入江)の監視拠点であった。
二之丸東櫓台付近は近代になって櫓の西側の土塁が削られて畑地となりそれが原因で
裏側の石垣が崩壊してしまったようです。
訪問時は石垣の修復工事が実施されていました。
その後、土砂が堆積して形状や大きさがわからなくなっていた。
今回の調査(150㎡)櫓台の西側の構造を明らかにするとともに、その破損状況を
把握する目的で実施されました。
東西約6m、南北約7.8m、高さ5.5mであると確認されました。
石垣の一番上の石(天端石)には櫓土台を安定して据え付けるために石材が
加工されていました。その痕跡により柱が21cmの角材が使用されていた
ことが判明。
また、櫓台の西側は当時から石垣が4段分しかなく、それより下は土塁で築かれて
いたことも判明したようです。
上の写真は清水門付近から南側の二之丸東櫓台方面を臨む
左側に赤穂藩の旧米蔵(再現)が写っています。
西中門跡
上の2枚の写真は西中門跡の発掘現場(ブルーシート付近)の遠景
二之丸庭園より撮りました。
上の写真は西中門跡の発掘現場の航空写真です。 出典:1)
調査面積は200㎡。
今回の調査で全体像が把握された。
高麗門控え柱の礎石(70cmφ花崗岩)が見つかった。周りは玉砂利で固められていた。
門(幅約4.1m、高さ約4.5m、奥行き約2.5m)は二之丸外堀から土橋でつながり、
土橋の南護岸には海からの攻撃に備え、土手があったという。
門の内側には、舟遊びの舟がくぐることのできた木の反り橋があったとされる。
二之丸東櫓台復元案
上の写真は二之丸東櫓台復元案 出典:1)
よりビジュアルにするために赤穂市立歴史博物館に展示の模型を添付しました。
出典:赤穂市立歴史博物館編 赤穂城絵図展(2000)Page75
西中門跡復元案
上の写真は西中門復元案 出典:1)
よりビジュアルにするために赤穂市立歴史博物館に展示の模型を添付しました。
出典:赤穂市立歴史博物館編 赤穂城絵図展(2000)Page75
赤穂ロイヤルホテルであった為、出かけていました。
その時に神戸新聞2018年10月11日付けで報道があった表題の赤穂城跡二之丸東櫓台と
西中門跡の発掘調査に関する記事により興味を持ったので現地を確認しようと思い
現地を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。
尚、現地説明会は2018年10月13日(土)に行われたようです。
また、発掘調査の概要についてインターネットにより調べてみました。
参照サイト
1)赤穂城二之丸東櫓台・西中門跡の発掘調査 - 赤穂市教育委員会(PDF)
2)赤穂民報 2018年10月10日号 「東櫓台と西中門 発掘で規模や構造明らかに」
3)神戸新聞NEXT 2018-10-10「赤穂城跡、江戸時代の門周辺景観が判明 市教委発掘調査」
赤穂城の縄張図
まず、発掘場所を確認するために赤穂城の縄張図を添付しました。(下の写真)
赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から
入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命令、慶安元年(1648)
より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した
甲州流軍学の海岸平城である。
以上は二の丸現地説明委板よりの引用
赤字で発掘現場の場所を示しています。
出典:赤穂市立歴史博物館編 赤穂城絵図展(2000)Page73
また、赤穂城の地形と周辺全体を把握するために播州赤穂家中近辺町在之絵図(部分)を
添付しました。(下の写真)
出典:赤穂市立歴史博物館編 赤穂城絵図展(2000)Page43
現地写真
二之丸東櫓台
二の丸東櫓台は赤穂藩の米倉と船入(船を接岸させる入江)の監視拠点であった。
二之丸東櫓台付近は近代になって櫓の西側の土塁が削られて畑地となりそれが原因で
裏側の石垣が崩壊してしまったようです。
訪問時は石垣の修復工事が実施されていました。
その後、土砂が堆積して形状や大きさがわからなくなっていた。
今回の調査(150㎡)櫓台の西側の構造を明らかにするとともに、その破損状況を
把握する目的で実施されました。
東西約6m、南北約7.8m、高さ5.5mであると確認されました。
石垣の一番上の石(天端石)には櫓土台を安定して据え付けるために石材が
加工されていました。その痕跡により柱が21cmの角材が使用されていた
ことが判明。
また、櫓台の西側は当時から石垣が4段分しかなく、それより下は土塁で築かれて
いたことも判明したようです。
上の写真は清水門付近から南側の二之丸東櫓台方面を臨む
左側に赤穂藩の旧米蔵(再現)が写っています。
西中門跡
上の2枚の写真は西中門跡の発掘現場(ブルーシート付近)の遠景
二之丸庭園より撮りました。
上の写真は西中門跡の発掘現場の航空写真です。 出典:1)
調査面積は200㎡。
今回の調査で全体像が把握された。
高麗門控え柱の礎石(70cmφ花崗岩)が見つかった。周りは玉砂利で固められていた。
門(幅約4.1m、高さ約4.5m、奥行き約2.5m)は二之丸外堀から土橋でつながり、
土橋の南護岸には海からの攻撃に備え、土手があったという。
門の内側には、舟遊びの舟がくぐることのできた木の反り橋があったとされる。
二之丸東櫓台復元案
上の写真は二之丸東櫓台復元案 出典:1)
よりビジュアルにするために赤穂市立歴史博物館に展示の模型を添付しました。
出典:赤穂市立歴史博物館編 赤穂城絵図展(2000)Page75
西中門跡復元案
上の写真は西中門復元案 出典:1)
よりビジュアルにするために赤穂市立歴史博物館に展示の模型を添付しました。
出典:赤穂市立歴史博物館編 赤穂城絵図展(2000)Page75