2018年11月18日(日)、北前船寄港地セミナー in 赤穂市坂越浦が
赤穂ロイヤルホテルであった為、出かけていました。
その際に訪問した赤穂城下の赤穂藩旧上水道モニュメントについて写真紹介します。
参照サイト:
1)http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/tazunete/tazunete4_2.pdf
JR播州赤穂駅より赤穂城跡に向かう大通りを進むと五叉路の交差点がある。
旧上水道モニュメントはこの交差点にあります。
上の3枚の写真が赤穂藩旧上水道モニュメント
赤穂藩上水道は元和2年(1616)池田藩代官垂水半左衛門に始まり浅野藩で形を
整え森藩に受け継がれ、さらに明治・大正・昭和と400年もの間、赤穂の城下町を
潤し、昭和19年(1944)新上水道にその役目を引き継いだ。
垂水半左衛門は慶長19年から元和2年(1614~1616)の3年をかけ高雄の切山隧道を
掘り抜いて千種川の水を取水し、導水路を引いて城下に水をもたらしました。
城下に入った上水道は、地下を網の目のように走り、城内や町家の家々に各戸
給水されました。
「旧赤穂藩上水道」は江戸神田・広島福山水道と並び「日本三大水道」の一つと
されています。
上の写真は赤穂上水道の経路を示したもので上述した旧水道モニュメントや
高雄の切山隧道などを地図上に示しました。
垂水半左衛門について少し書いておきます。
垂水半左衛門は正式名は垂水半左衛門勝重と言います。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後の江戸時代、赤穂は播磨一国を支配した姫路城主の
池田輝政の領国となります。池田輝政は本拠である姫路城のほか、播磨内に6つの支城を
置いて領国を固めました。6つの支城とは三木城、明石(船上城)、高砂城、龍野城、
平福の利神城、赤穂城で一族もしくは家老クラスの重臣を置き西国への防備としました。
赤穂には末弟である池田長政が配されましたが、慶長8年(1603)には二男忠継に備前国が
与えられたため、西への防備は備前国にまかされることになり、赤穂には代官の
垂水半左衛門勝重が任命されました。
垂水半左衛門勝重は上述のように上水道を整備した他に加里屋の地に「掻上城」を築き
城下町の整備事業に取り組みました。掻上城は本丸だけの小規模なものでした。
その後、池田政綱・輝興(てるおき)が赤穂藩主として続けて入封します。
上の写真は池田時代の赤穂藩城下
出典:赤穂市立歴史博物館編 常設展展示案内(1999) Page39
上の写真は池田輝政を中心とした系図
出典:赤穂市立歴史博物館編 常設展展示案内(1999) Page38
明治41年(1908)発行の『赤穂郡志』には、元和9年(1623)に大火災がおき、加里屋の町は
2軒を残して全焼したとの記録があります。
その後に整備された町割りが現在に繋がっています。
赤穂ロイヤルホテルであった為、出かけていました。
その際に訪問した赤穂城下の赤穂藩旧上水道モニュメントについて写真紹介します。
参照サイト:
1)http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/tazunete/tazunete4_2.pdf
JR播州赤穂駅より赤穂城跡に向かう大通りを進むと五叉路の交差点がある。
旧上水道モニュメントはこの交差点にあります。
上の3枚の写真が赤穂藩旧上水道モニュメント
赤穂藩上水道は元和2年(1616)池田藩代官垂水半左衛門に始まり浅野藩で形を
整え森藩に受け継がれ、さらに明治・大正・昭和と400年もの間、赤穂の城下町を
潤し、昭和19年(1944)新上水道にその役目を引き継いだ。
垂水半左衛門は慶長19年から元和2年(1614~1616)の3年をかけ高雄の切山隧道を
掘り抜いて千種川の水を取水し、導水路を引いて城下に水をもたらしました。
城下に入った上水道は、地下を網の目のように走り、城内や町家の家々に各戸
給水されました。
「旧赤穂藩上水道」は江戸神田・広島福山水道と並び「日本三大水道」の一つと
されています。
上の写真は赤穂上水道の経路を示したもので上述した旧水道モニュメントや
高雄の切山隧道などを地図上に示しました。
垂水半左衛門について少し書いておきます。
垂水半左衛門は正式名は垂水半左衛門勝重と言います。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後の江戸時代、赤穂は播磨一国を支配した姫路城主の
池田輝政の領国となります。池田輝政は本拠である姫路城のほか、播磨内に6つの支城を
置いて領国を固めました。6つの支城とは三木城、明石(船上城)、高砂城、龍野城、
平福の利神城、赤穂城で一族もしくは家老クラスの重臣を置き西国への防備としました。
赤穂には末弟である池田長政が配されましたが、慶長8年(1603)には二男忠継に備前国が
与えられたため、西への防備は備前国にまかされることになり、赤穂には代官の
垂水半左衛門勝重が任命されました。
垂水半左衛門勝重は上述のように上水道を整備した他に加里屋の地に「掻上城」を築き
城下町の整備事業に取り組みました。掻上城は本丸だけの小規模なものでした。
その後、池田政綱・輝興(てるおき)が赤穂藩主として続けて入封します。
上の写真は池田時代の赤穂藩城下
出典:赤穂市立歴史博物館編 常設展展示案内(1999) Page39
上の写真は池田輝政を中心とした系図
出典:赤穂市立歴史博物館編 常設展展示案内(1999) Page38
明治41年(1908)発行の『赤穂郡志』には、元和9年(1623)に大火災がおき、加里屋の町は
2軒を残して全焼したとの記録があります。
その後に整備された町割りが現在に繋がっています。