2020年4月8日(水)、NHK歴史秘話ヒストリアで「激闘!中国革命に賭けた日本人
孫文と梅屋庄吉」が放送され視聴しました。
面白かったので内容を要約して紹介します。
番組の構成は次のとおり。
Episode1 革命に見た夢
Episode2 革命資金を手に入れろ
Episode3 決戦 辛亥革命
本題に入る前に梅屋庄吉の一生を要約して記しておきます。
明治元年11月26日(1869年1月8日)長崎市に生まれる 父:本田松五郎 母:ノイ
明治x年 米屋、貿易商の梅屋吉五郎・ノブ夫妻の養子となる
明治15年(1882)庄吉14歳の時に梅屋の持ち船「鶴江丸」で上海に渡る
ここで見たのはアヘン戦争後、列強の支配で貧しく、苦しい中国人の姿
明治19年(1886)庄吉(18歳)上海からフィリピン経由でハワイ行を実行するが船火災で長崎へ帰郷
明治20年(1887)朝鮮半島が大飢饉の為、梅屋商店の米を輸出し大儲けする。その後(明治26年)米の価格暴落で大失敗し長崎にはおれず中国に渡る
明治27年(1894)壱岐出身のトク(19歳 旧姓は香椎)と結婚 庄吉(25歳)
明治28年(1895)孫文(29歳)と梅屋庄吉(27歳)は庄吉が香港で営んでいた写真屋で運命の出会いをします。2人を引き合わせたのは英国人医師ジェームス・カントリー博士
明治38年(1905)孫文は広州で清朝を滅亡させる為に武装蜂起するが密告で計画がバレて孫文は命からがら逃れ日本に亡命
梅屋庄吉も支援者として当局から狙われるがシンガポールへ脱出
庄吉はシンガポールで映画事業に目をつける
明治38年(1905)6月に日本に帰国し日活の前身であるM・パテー商会を設立
白瀬矗の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作 利益は革命資金に
大正4年(1915)孫文(49歳)と宋慶齢(22歳)の仲人として結婚披露宴を自邸(新宿百人町)で開く
孫文は1895年に盧慕貞と結婚、彼女との間に1男2女 1915年に離婚
昭和4年(1929)南京ほかに孫文を銅像を建設(現在も4か所に残されている)
昭和9年(1934)外相・広田弘毅に日中関係改善の談判に赴こうとした途上、別荘の最寄駅である外房線三門駅にて倒れ、急死
https://tabinaga.jp/sonbunumeya/index.html
https://tabinaga.jp/sonbunumeya/introduction.html
上記サイトに梅屋庄吉・トク夫妻の偉業が簡潔に纏められています。
上の写真は明治11年(1878)5月撮影の梅屋庄吉少年9歳or10歳
足は洋靴、左手に洋傘を持って、帽子も外国産の当時としては超モダン少年
上の写真は梅屋庄吉の曾孫の小坂文乃さんと孫文から送られた「賢母」と書かれた法被
辛亥革命(1911)に財力の面で孫文を支援し孫文から「賢母と呼ばれた」と解説された
上の写真は孫文と日本人の協力者達 梅屋庄吉(中央前列)の他、頭山満、宮崎滔天
など中国同盟会・アジア主義の人々が写っています。
上の写真は辛亥革命(明治44年(1911))の蜂起地点を示したもの
上の2枚の写真は辛亥革命で孫文が清朝に勝利して孫文が凱旋した場面
ここで孫文は共和制の中華民国の国父となります。
上の写真は孫文の継承者「袁世凱」が皇帝となり独裁政治を始めます
この結果、孫文は国外追放の憂き目に遭います。
国父となった孫文ではあるが、継承した袁世凱から追放され大正2年(1913)、
再び日本に来日することになります。(孫文は袁世凱を討伐しようとしたが失敗)
上の写真は孫文を囲む日本の支援者 撮影は大正2年(1913)か
上の写真は孫文の死去3年前、梅屋庄吉に宛てた最期の電報
孫文との交友を記した日記や書簡については、梅屋庄吉の遺言で口外を禁止したこと
また遺族が戦中は勿論のこと戦後も日中関係に配慮して、昭和47年(1972)の
日中国交正常化まで公開されることはなかった。
梅屋庄吉・トメ夫妻の一人娘?の小坂千世子も父の生涯を記録する書類を作成
上述の小坂文乃さんは番組で祖母(千世子)の日記についても話をされていました
最後に番組より詳細に梅屋庄吉の生涯を綴ったyoutube動画がありましたので添付
しました。この動画は力作で見ごたえがありました。
歴史教科書によるお勉強よりためになる動画で是非若い皆様に見て頂きたいと思った
次第です。
支持孙文的日本人,梅屋庄吉与辛亥革命(字幕)
孫文と梅屋庄吉。感動の友情物語!