神戸市須磨区にある真言宗須磨寺派大本山に「須磨寺参詣曼荼羅」と言われる
159×166cmの紙本着色の絵画があり、須磨寺宝物館に複製品が展示されています。
上の写真は福祥寺(須磨寺)宝物館に展示の須磨寺参詣曼荼羅 撮影:2009-3-7
現地の説明板には次のように解説されています。
須磨寺(福祥寺) 紙本著色参詣曼荼羅図(縮小複製) 桃山時代
参詣人で賑わう寺の景観を画面いっぱいに描き、上方の左右に日輪・月輪を配する
参詣曼荼羅の一種である。須磨寺は庶民信仰の寺であり、文禄5年(1596)の大地震
の時には西国巡礼の150人もが通夜していた。本図にも公家らしい風体の者、武士
巡礼人、琵琶法師など多数の人々が描かれている。本図には前述の大地震で倒壊した
三重塔が描かれていることなどから、文禄年間頃までの景観を描いたものと考えられる。
この参詣曼荼羅は文禄5年(1596)7月12日大地震の被害を受けた三重塔の他、大きな
被害を受けた須磨寺の復興に向けて、人々に寄付を募る目的で制作された絵画であると
考えられています。制作時期は16世紀中半~17世紀早期と推定されています。
社寺参詣曼荼羅についてWikipediaの解説を観ると
参詣曼荼羅の特徴として指摘されるのは、徳田和夫の整理によれば次の8点、特に2から5である。
(1)大幅(掛幅形式)の画面に泥絵具で彩色していること。(紙本が大多数、絹本は三本のみ)
(2)明らかに先行する本地・垂迹・本迹の各図像曼荼羅や宮曼荼羅の影響下にあること。(曼荼羅)
(3)礼拝の対象となっていること。(礼拝画・仏画・神画)
(4)寺院・神社の境内一円(堂塔伽藍)と周辺を俯瞰的に描いていること。(地図)
(5)参詣路を配し、そこを行きかう参詣者たちの姿を描いていること。(案内図・遊楽図)
(6)寺社の行事や祭礼、神仏祭祀の儀礼、門前町の繁栄を描くものが多いこと。(風景図・風俗絵)
(7)寺社に伝わる物語(縁起・霊験譚)を描きこむものが多いこと。(縁起絵・物語絵・説話絵)
(8)絵解きを想定して制作していること。(絵説式曼荼羅)
徳田和夫『絵語りと物語り』1990年 Page24-25
これからは本題の「須磨寺参詣曼荼羅」を読み解くことをテーマとして記載していきます
上の写真は須磨寺参詣曼荼羅図に描かれている建物や主な登場人物について
番号を振って記載しました。実在の人物は生没年を付記した。
①本堂
②中門
③大門
④大師堂
⑤三重塔
⑥鐘楼
⑦日本廻国大乗妙典六十六部経聖(六部)
⑧若木桜
⑨関守稲荷神社
⑩須磨の関屋
⑪敦盛塚(1169-1184)
⑫綱敷天満宮
⑬綱敷天満宮の鳥居
⑭菅原道真(845-903)
⑮在原行平(818-893)
⑯松風・村雨
⑰光源氏
⑱影向の松 又は 平重衡(1158-1185)腰掛松
⑲琵琶法師
⑳出世稲荷
人物描写などについて補足記述していきます。
①本堂の外陣では2人の僧侶が経典を読誦しています。本堂を囲む縁では僧侶が
稚児と会話を交わし小僧さんが箒で掃除をしています。
④大師堂の前、⑥鐘楼の左手、⑨関守稲荷の右手に巡礼者が描かれています。
須磨寺は西国観音巡礼の札所ではない。しかし第24番中山寺から第27番円教寺へ
巡礼者は須磨寺、鶴林寺を繋いで海岸沿いを歩いていた。
⑦六部の右横には、⑲琵琶法師が描かれています。座頭と小座頭の3人連れだが
小座頭は林に向かって杖を振りあげている。林の中から犬が吠えているのだ。
⑧若木桜の右手には⑰光源氏と従者などの貴族の姿が描かれています。
⑮在原行平が従者とともに右手を挙げ松の小枝を眺めています。その左手には
桶を持った二人の汐汲女(⑯松風・村雨)が佇んでいます。
千森川と小屋谷川の合流点付近では牛をひいた男が川を渡ろうとしています。
左手下の海岸には歩掛け舟が描かれています。その右手には男が綱を引き、
いましも舟を係留させようとしている姿が描かれています。
須磨寺の参詣曼荼羅について詳細な読み解きは西山克氏が「上野山 祥福寺
須磨寺 歴史と文学」(1987)ジュンク堂のPage100-102が解説されています。
参詣曼荼羅を利用して絵解きが盛んにおこなわれていた時代には素晴らしい
物語が語られていたと想像するが上述のような無味な表現で終わった。
そこで、三木合戦の絵解きの動画を添付しました。
法界寺 三木合戦 絵解き on 2014-4-17 その1
2014年4月17日、恒例の三木合戦 絵解きが三木市別所町東這田の法界寺でありました。初めて参加させていただきました。「三木合戦絵図」は三幅で構成された絵図で、天保12年(1841)に讃岐在住の別所氏末裔・別所九兵衛長善が画師・中条竹趣に模写させ、三木合戦時の城主・別所長治の菩提寺である法界寺に奉納されたものです。原図となった三木合戦絵図はは別所方として三木城に籠城した別所氏の家臣の来住安芸守(きしあきのかみ)の子孫によって寄進され、寛永年間(1624~1644)頃に制作されたものと伝えられており、金箔が貼られた豪華なものとのこと。語り手は生田淳仁氏で代々語り手を務められているそうです。少なくとも200年以上続いている三木市の伝統行事です。
最後に番号を振ってない須磨寺参詣曼荼羅を添付して筆を置きます。