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明智光秀の妻 熙子(ひろこ)の戒名が聖衆来迎寺の涅槃図裏面に記載

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表題の記事が8月8日付け神戸新聞朝刊27面に掲載されていました。

憶えのためにブログ記事にして残しておきます。

記事の要旨は下記のとおりです。

大津市歴史博物館は、聖衆来迎寺にある「涅槃図」(1581年寄進)の裏面に、

明智光秀の妻、熙子(ひろこ)の戒名「福月真祐大姉」が供養対象者として

書かれているのを発見したと8月7日に発表した。

熙子の死亡時期は、菩提寺・西教寺(同市)の過去帳に記されている時期(1576年)

の他に、「明智軍記」が「本能寺の変」直後の坂本城(同市)落城の際に自害した

とする82年説もあり、同館の和田光生学芸員は「涅槃図が寄進された81年以前に

死亡したと確認でき、76年死亡説の可能性が高くなった」としている。

 

同館は、光秀とゆかりがある聖衆来迎寺の寺宝を調査。

涅槃図(縦約145センチ、横約135センチ)の裏面に寄進者の名前などが墨で書かれ、

成仏を願う物故者として熙子の戒名があった。寄進日は天正9年(1581)8月と記載。

Gooニュース(中日新聞)でも上記とほぼ同じ内容で報道されていますのでリンクさせていただきます。

 gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/chuplus/region/chuplus-101619

本年(2020)3月3日に西教寺と聖衆来迎寺を訪問しており明智光秀の妻 煕子の墓

の写真などを撮っていますので関連写真を添付しておきます。

上の2枚の写真は大津市西教寺に眠る明智光秀の妻 煕子の墓と現地説明板

天正4年(1576)11月7日寂 戒名は福月真祐大姉

 撮影:2020-3-3

明智光秀は煕子(ひろこ)が存命中は側室を置くことなく三男四女をもうけ、

仲むつまじく暮らしていたと伝わっています。石山本願寺攻めで、病に倒れた

光秀を、煕子は坂本城で懸命に看病しました。光秀が回復すると今度は煕子が病に

倒れ、坂本城で亡くなりました。葬儀は西教寺で行われ、当時、妻が先に死んだ場合

夫は参列しないのが慣わしでしたが光秀は葬儀に参列したといわれています。

光秀の愛妻家の一面が判るエピソードとして西教寺で語り継がれています。

上の写真は西教寺の山門 撮影:2020-3-3

上の写真は聖衆来迎時の山門 撮影:2020-3-3

山門は坂本城から移築されたと伝わっています。

3月3日に明智光秀所縁の場所を10箇所ほど観てきました。

詳細は下のブログで記載しています。

 大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その10(最終回) 光秀の菩提寺「西教寺」


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